とぼけたやりとり

 

 「孝之さん。おサルさん」と妻の叫び声が居宅の方から聞えた。私は10数mほど離れた囲炉裏場にいたが、居宅の方を見上げながら、なんともとぼけた返答をしている。

 「『お』と『さん』はいらない、サルでよい」と、叫んでいた。

 よほど前日こうむったサルの被害に腹が立っていたのだろう。カブラとダイコンは、太っている分がことごとく抜き取られ、食い散らかされた。丁寧に食べたら、3分の1も引っこ抜かなくて済んでいたことだろう。

 わが家ではやむなく、サルが食べ残した分を、かじられた部分を丁寧に切り捨て、台所に持ち込んでいる。

 「ビッコです」と、妻の次の声。

 「と、言うことは、大目に見ろ、ということか」と、またとぼけた質問。

 「そうではありません」

 「ならば、どこにいるンだ」

 「テントです」

 「テントなんて、どこあるンだ」

 「テントじゃなくて、カバーの上です」

 と妻は応じながら、私がいる囲炉裏場の方に向かって近づきつつあった。

 「カバーって、何のカバーだ」

 と、問い質しながら、私も妻の方に歩み寄った。

 「ほれ、オリーブグリ−ンの」と、妻が言ったので、やっと私にも解せた。それは「木陰のテラス」に被せてあるオリーブグリ−ン色のブルーシ−トのことだろう。

 「ならばどうして最初から、月見台の上にいる、と言わないンだ。そのために名称を与えたあるンだ」と、私は叫んだ。だが、実のところは、これもとぼけた発言だった。「月見台」ではなくて、正式な名称は「木陰のテラス」と決めてあった。だけど妻は、

 「ゴメンナサイ」と、あやまった。だから私は「ひょっとしたら」と考えている。「木陰のテラス」よりも「月見台」の方がよりふさわしい名称ではないか、と。

 このころにはすでに、2人は「木陰のテラス」を見上げるあたりにまで歩み寄っていた。見ると、妻は手に何かを持っている。

「それ、何を持ってルンだ」

 きっと妻は、サルを見た時に、側にあったこの木切れを思わず拾い上げたのだろう。もし、そうだとすると、と私はまたとぼけたことを考えている。

 道具とは何か、とその定義に想いを馳せていた。「道具は体の延長」との考え方がある。もし妻が、この木切れを思わず拾い上げていたとすれば、まさに体の延長としての道具の始まりではないか、と思った。非力な己のコブシではサルに対抗し切れないと感じ取り、己のコブシの延長として木切れを思わず拾い上げていたのだろう。

 その後、水曜から連日のごとく手負い(理由は分からないが、後ろ足が一本不自由。大工さんは、傷をしているからケンカをしたのだろう、という)サルが出没。

 そうと知って、妻は「大工さんもいらっしゃるのに出ましたね」と(かねがね、男のいない日にかぎって出没することを悔しがっていたが)声を弾ませた。

 そして、ビッコだから「他所では生きてゆけないのでしょうか」と心配する。

「それ(同情、自己満足、あるいは豊かな者の思い上がり)が悲劇を再生産する」と私はたしなめたが、その後、我ながら「いい加減なものだ」と反省。

 母屋の近くに、ダイコンのカジリ残しが落ちていた。「また1ッ本やられた」と、思いはしたが「まっ、エエか」と、網田さんの口まねをしながら見過ごした。
 

3分の1も引っこ抜かなくて済んでいた

木切れを思わず拾い上げていた

ダイコンのカジリ残しが落ちていた