庭仕事の醍醐味
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それは、なんといっても「真の遊」の醍醐味だ。元来の「遊」とは、「完全なる自由」×「創造」の賜物とのことだが、私の庭仕事の報酬はその醍醐味だ。 遊んでいるつもりの人が多いが、多くの場合は「遊ばれている」。何かの装置や仕掛けを用意され、それに関わってお金を支払わされている。野生動物は、身を挺して用意された何かの装置や仕掛けなど向かうが、人間はお金を掛けて立ち向かうことが多い。時には「呼び込み」に引っかかり、多額のお金を支払わされたりもする。それでは「遊ばれている」ことではないか。控えめに見ても「遊んでもらっている」ことではないか。 でもこれはたいした問題ではない。 「遊ばせたり、遊んでもらったりしている間に」その両者が、自滅の道を突き進んではいないか、ということだ。たとえば、舟の上で「遊ばせたり、遊んでもらったりしている間に」舟を沈ませかけていないか、ということだ。 でも、それもたいした問題ではない。 本人がそれでスリルやサスペンス、あるいは快適や快感などを得ており、片方が金を得てつりあっておればよいことだ。問題は、それは食から派生した醍醐味とはいえないのではないか、ということだ。 例えば、環境破壊や資源枯渇問題などの加速や、子どもや孫の世代に「負の遺産」を残すようなことをして、いわば舟を沈ませかねないことをしていたのでは、その是非や善悪は別にして、「醍醐味」は味わえない、と思う。 |