ボルドー

 フランスでは、シャンパーニュ地方で造った発泡酒にのみに「シャンパン」を名乗らせてきた、とかつて聞いたことがあり、その伝統に感心させられている。でも、その時の感心のし方をこの度は反省した。ボルドーを訪ねてきた友人から、ボルドーでのワインの作り方を聞かされたからだ。

 人工的な給水をせず、雨のみに頼ってブドウを育て、ワインをつくっている、という。日照りの年もあれば、多雨に悩まされる年もある。だから余計に、「何年もの」との表示に価値がありそうだ、と思わせられた。

 給水車で運んできた水や汲み上げた井戸水などは使わないようだが、人工降雨は許されていそうだ、という。これとて、天まかせに近いことだろう。

 この話を聞きながら、京野菜に思いを馳せ、残念に思った。種を持って行って、中国で育てても京野菜だ。その種も、京都で育てなくともよい。さらに、サラダ菜として年中使えるように品種を改良したミズナなども、しかも他府県や外国で種を作り、また異なる他府県や外国で育てた分も、京野菜として扱える。

 工業社会は、ヒトを「ズル賢いセモノ」にしてしまう装置だと思う。その装置をうまく作り上げ、集金システムとして広めたくなるヒトを増殖させる装置だと思う。だから、遊ぶつもりの人は、ことごとく遊ばされています。でも、この考え方はやがて、ビジネスのグローバリズムに敗北するに違いない。地球がもたない。