半断食道場

 

 1週間を通して、ついに61.9kgになった。「参加」を決めた頃は、66kg近くになっていた。今後は、なんとか63gr台を保ち、きれいな血液を維持したい。できれば今まで通りに現役で、庭仕事に関わりながら2025年を迎えたい。きっとそのころに、日本人は生まれ変わるに違いない。それだけに、アイトワ塾生の皆さんには私より長生きしてもらい、半生にわたる学び仲間であったことを喜びあいたい。そのような次第で、4回目の半断食道場・マクロビアンに網田さんと参加した。

 私を含めて16名の受講者(他にスタッフ5名)は多彩であり、それだけで楽しかった。その上に、女性受講者が多かったこともあって、初めてこの男6人と一緒の大部屋で過ごした。それもヨカッタ。大部屋の他の4人は1夜にして、網田さんより早く眠りにつくことが先決、と悟っていた。もちろん私は、書籍などかなりの資料などを持参したこともあり、何の苦も感じていない。むしろとても充実した日々にしている。

 早く眠った日は、未明にソッと起き出し、読書。寝そびれた時は、眠くなるまで読書。大部屋のそばにトイレがあり、その前にほどよい明かりがあったので、その下に椅子を運び、読みふけった。京都と奈良、2つの古都の人となりの違いに触れた機関誌もあった。私にも詩人のような時代があったことを振り返らせる一書もあった。おかげで、テレビや新聞などに縁のない日々を、連日6時間の快眠で過ごしており、惰眠におぼれずに済んだ。

 スタッフ以外では、顔なじみは1人のみだった。体重100kg前後を誇るこの企業経営者は、年に1度の車検(メンテナンス)のように位置付けたようだ。仕事柄、そして網田さんとやや似た人柄から、勧められた酒は断りがたいのだろう。茶道もわきまえ、見定めたビジネス範囲(市場)は未来の方から微笑みかけるフィールドであり、とても心惹かれた。

 アメリカ人男性が1人いた。日本語がまったく分からないにもかわらず、実に紳士的な受講だった。今は独り身で、大型キャンピングカーで複数の子どもの家を巡ったり、名勝地を訪れたりする優雅な身だ。71歳のこの人は、恋人に誘われての体験参加だった。

 その恋人も、今は独り身で、子どもはいずれも成人しており、とても優雅な境遇と見た。お2人は、豪華客船のクルージングの愛好家でもあるようで、そこで知り合ったとか。お2人とも贅肉など何処にもついておらず、清潔な食生活観に感心したが、それ以上に「インディビジャルな人」とはこうした人を指すのだろう、と感心させられた。

 わが国で、産休を確保する裁判を最初に起こしたという女性がいた。独身で聡明だし、正義感に富んだ人、とお見受けしただけに、忸怩たる思いをした人に違いない、と同情した。それは、このたびの往路で、網田さんと話し合った日本の風土(インディビジャルな人が少なく、ご都合主義がまかり通りかねない)を思い出したからだ。

 乳がんを患った保健師で、今は保母の女性もいた。抗がん剤に疑問を抱き、白血球とリンパ球の数値に注目。ガンは治っても日常生活に耐えられない体になると睨み、マクロビアンに切り替えた。彼女は、最も厳しい先生No,1と、最も面白い先生No,1を目指していた。彼女は、栄養バランスの取れた朝食をとっている子どもは100人中10人いないとか、前に転ぶと歯を折ってしまう子どもが多い、とも話した。抱っこひもを流行らせながら、補完育児をおこたる片手落ちの西欧かぶれのせいだろう、と私は睨んだ。

 もう一度、愛媛を訪れたくさせた人もいた。政府が指導するミカン栽培で、ホタルが激減した。政府の方針で、オレンジが自由化になり、ミカン農家から自殺者が続いた。そこで民活に目覚め、有機の島を目指している。カチカチと光る島ホタルも復活した。

 欧州系の化粧品会社で幹部を勤める女性、不動産会社に勤めており、私の生き方に興味を示した青年など、参加者の魅力を語り始めたらきりがない。いずれの人も、自己責任能力に富んだ人たち、と見受けた。そのおかげせいか、網田さんと交わした秘かな企みが3夜連続で飛んでしまった。それは全日、秘かに温泉に出かける画策だった。

 2夜に分けて自己紹介する夕べが組み込まれ、さらに3夜目は私にスピーチの機会が与えられたからだ。往復1時間かけての温泉通いを中断せざるを得なかった。そのおかげだろうか、最終日の夜は同行希望が出て、7人連れで繰り出している。網田さんと私は身体的別格者と認められた温泉だが、最終の夜は少しハメを外し、反省している。

初めてこの男6人

ピーチの機会が与えられた

ピーチの機会が与えられた
 

 私たち2人は、ロードワークでも自由が認められ、自主ロードワークが許された。そこで、聖徳太子の生誕地・橘寺と弘法大師ゆかりの川原寺を目指すことから始めて、今回はややきつめのプログラムを組んだ。

 橘寺では、改めてインフレのありように思いを馳せている。インフレとは、不労所得者のたくらみの結果であり、インフレを囃す人は不誠実な人、と睨んでよいだろう。その好例はバブルだ。たくらんだ者は太って逃げ、尻馬に乗ってすってしまう人も出る。いずれにせよ、広く薄く、下々の者は、貧しくされてしまう。

 初日の道中で、「気をつけなくては」と思わせられることがあった。耳が遠くなった老婆と言葉を交わした時のことだ。野良仕事中だったが、多くのネギが収穫されずに残っており、ネギ坊主を付けていた。それは、ヒコバエを芽生えさせ、翌年度の苗にするためか、種を取るためなのか、などを尋ねようとした。返ってきた老婆の言葉は、「まだ種は取れない」などとチグハグだった。そのチグハグをつなぎ合わせると、老婆が私の質問を誤解していることが分かった。老婆の心象を推し量りながら、「明日は我が身」と言い聞かせるとともに、心のありようを見直さなければ、と内省した。

 翌日から2日続けて、2人にとっては厳しいコースを選んだ。岡寺「くつな石」だ。岡寺までの坂道と階段が続いた道のりで、重機を活かした石崖づくりを観た。見とれている間にメモを書き記した地図を落とし、取りに戻ったが、キツかった。でも、「あそこで(落としたに違いない)」と思い出し、その通りに見つけたときは嬉しかった。

 この道中で、戦没兵士の墓を見た。遺骨箱の中身は石ころだったりDNAが発見される前の遺髪であったりしたわけだが、丁重にそれらが葬られたのだろう。位は違えど形は同じ墓石が並んでいた。その1つが外されていたのがとても気になった

 翌日は、「くつな石」までたどり着いたが、これは行き掛かり上の目的地になった。実は、新聞などで知った昨年の新発掘物を求めて歩み始めている。ところが、道を尋ねた農夫が、その前に騒がれたピラミッド状墳墓を目指しているに違いない、と思ったようだ。そのそばに道案内があり、「これゾ」との思いで読み進んだ。すぐに肝心の新発掘物ではないと分かったが、新たな興味に惹かれ、さらにダラダラ坂を上ることになった。

 たどりついた先は、ガッカリするほど小ぶりの岩だった。だが、崖下から響いてくるせせらぎの音はすがすがしく、若ければルール違反をして水を飲みに下りたのでは、と思いながらしばし腰を掛けている。つえがなければ登る気が起らなかったような山道を下りながら、新発掘物を求め直す気力をすっかり失っている。

 帰路、ジャガイモの手入れをする農夫がいた。その理由は、母から聞いていた通りだった。そこで「今年は、1本仕立てにするか」と、わが家に飛んで帰りたいような気分にされている。それがよかったようだ。元気を取り戻し「今回は石舞台を見よう」と網田さんと励まし合い、あえて遠回りを覚悟で、とぼとぼと歩いている。

 翌日は、県立万葉文化館をうろつきまわり、飛鳥池工房跡を彷彿するひと時も得た。また、女綱(縄で編んだ女性器のシンボル)の複製品も見学できた。正規のロードワークに挑戦し、飛鳥川沿いに歩んでおれば、男綱(前回はそこまで着いて行った)だけでなく、本物の女綱も見ることができた。この日は、伝飛鳥板蓋宮跡まで足を延ばしたり、飛鳥寺の瓦を焼いた窯跡を偲んだり、飛鳥寺に立ち寄ったりしている。
 


岡寺

「くつな石」

「くつな石」

「あそこで」

1つが外されていた

ピラミッド状墳墓

ピラミッド状墳墓

ピラミッド状墳墓

道案内

石舞台を見よう

石舞台を見よう

飛鳥池工房跡を彷彿する

飛鳥池工房跡を彷彿する

飛鳥池工房跡を彷彿する

飛鳥池工房跡を彷彿する

伝飛鳥板蓋宮跡
 

 ロードワーク最終日は、奈良文化財研究所、飛鳥資料館を訪れ、うろつきまわっている。ここで、亀石(の複製だが、そ)の全貌を知ったり、古代の水時計の仕組みなども確かめたりした。帰路、道に迷ったり、時雨に遭遇しかけたりしたこともあって、集合時間に遅れるという失態を初めて演じてしまった。

 こうした日程をすごした後で、最初の2日は温泉に、中3日は全員集合に、そして最後の1日は温泉に、と各2時間ほどを割いている。

 中3日の最後の日(スピーチの機会を与えられた)は、いかなる内容に絞るべきかと思案していたが、幸運に恵まれた。スタッフの1人が、アイトワの記事が載った古雑誌を持参していたからだ。そこで、「森をつくった森さん」にテーマを絞り込み、その経緯、森づくりを始めた意図、それがもたらしたご褒美などに触れることにした。

 「同化」「共感」そして「ブレないこと」が私の願い、と要約した。

 「同化」の説明は、半断食の食養生を例に挙げ、いとも簡単に同意を得た。「共感」も、半断食に時間とお金をつぎ込んだ人たち故に、説明は簡単だった。問題は「ブレないこと」だった。それは人間ゆえの課題であるからだ。

 人間と他の動物(環境の変化に即して生きる)との決定的な違いにも触れ、人間のみが求め得る幸せ(の大切さに早く気付く幸せ)を強調した。この幸せに視座をすえそこねると、環境をいたずらに破壊しかねない存在になる、と私は観ている。

 そこで、「つくる」という言葉を取り上げた。まず「作る」尊さに気づくこと。欲しくなるものを見せつけられて手を出すようでは「ダメだ」と訴えた。それでは「遊んでいるつもり」で「遊ばれている」ような人生になりかねない。

 つぎは「作る」を「造る」に格上げする努力を怠らないこと。やがて、人間にのみ許された「創る」喜びに目覚めるに違ない。なぜなr、

 とても私は幸せであった。まず網田さんに、このたびのスピーチを褒めてもらえた。同時に、あら方の人に共感してもらえたように思った。豪華客船のクルージングで知り合ったというお2人には、翌朝、「10年若ければ、と2人で語り合った」と目を輝かせてもらえた。とても楽しい1週間であった。

 帰路、談山神社まで足を延ばしたが、そこで網田さんは個体排毒。それを待つ間に栃餅を買い求め、網田さんと食した。その上で、やおらわが家を目指した。

 わが家は今、白い花でいっぱいだ
 


飛鳥資料館を訪れ

飛鳥資料館を訪れ

飛鳥資料館を訪れ

複製の亀石

複製の亀石

古代の水時計の仕組みなども確かめたり

古代の水時計の仕組みなども確かめたり

古代の水時計の仕組みなども確かめたり

豪華客船のクルージングで知り合ったお2人

白い花でいっぱいだ