網田さんに痛く感謝
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「1日早く気付いておればよかったのだが」とクヤシイ思いをしながら、妻と眺めたものがある。気付いておれば、網田さんに観てもらえただけでなく、ひとしきり話題にできていたのに、と残念に思った。野バラのアーチだ。 この庭では、2種の白い花をつける野バラが自生する。恐らく小鳥のフンから生えるのだろう。いつも思わぬところで発芽し、その棘に引っかかって気付かされる。その野バラが、その大きい方の花をつける方が、腰ほどの丈にまで伸びていた1本を見かけた2年前に、念願のバラのアーチ作りに手を付けたように記憶している。 わが家では園芸用のバラは育てられない。殺虫剤を用いずに育てようと幾度か試みたが、ことごとく失敗した。だが、野ばらは育っている。もちろん、時には虫に食われて丸坊主にされることもあるが、そこで衰弱することなく、復活している。だから私は、アーチ造りを計画した。妻は無駄な努力だとみなし、思いとどまるべし、との意見だった。 ところが、このたび、大きい方の花が咲いた。妻は、無駄な努力との意見を忘れたかのごとくに心を惹かれ、しばし見とれていた。この庭で誕生したバラのアーチだ。 網田さんを見送った翌日に気付いたことがいかにもクヤシイ。このたび痛く網田さんに感謝することが生じたのだが、もし気付いておれば、「やればできる」と思った私と「無駄な努力と見た」妻を対比し、感謝のほどを明らかにできていたのだから。 1日前に、網田さんの目の前で偶然のイタズラともいうべきことが次々と生じていた。それは、網田さんの提案に基づき、珍しい行動を私は始めたが、そのおかげで珍しい写真とフイルムを次々と発見するに至っている。 およそ40年来、私は私的な写真の整理をしていない。アルバムを作っていない。この間に、世の中ではフイルム時代からデジカメ時代への移行があった。 伊藤忠時代は、とりわけ子会社時代は、海外出張時の膨大な写真を、秘書がアルバムとフイルムを照らし合わせられるように整理していた。だが、私的な写真は未整理だった。その後は、内外の出張時の写真まで未整理になっている。もっとも、デジカメ時代になってからは、データーはコンピュータに収めているが、私には自由に引き出す能力がない。 網田さんに痛く感謝することになった事態は、近く喫茶室の壁面にアイトワの四季の写真を飾ることにしており、その話を持ち出したおかげだ。その計画を網田さんに話し、すでに出来上がっていた四季の写真を取り出してきて選んだり、阿部さんに作ってもらった額縁に収めて眺めたりした。その時のことだった。 網田さんは、この四季の情景は素晴らしいが、その素晴らしさを観てもらうだけで十分だろうか、との疑問を表明した。ボクは、「初めてアイトワに連れて来てもらった時に」と、語り始めた。「金持ちヤ」と、思ったという。「それでいいのか」、逆効果ではないか、との疑問の表明だった。ハッとさせられた。それは、私の狙いとは逆だった。 私のこれまでは、真面目な人が、その気になって、まじめに努力すれば報われることを実感できるモデル作りであった。「作る」から手を付け、次第に「造る」努力を傾けるようになり、ついには「創る」喜びを発見している。 世の中では逆に、この逆さまがまかり通る風潮が広まっていた。この点を、3日ほど前に、私は半断食道場で喚起していた。それをすっかり忘れ去っていたことを。網田さんは思い出させてくれた。 結果だけ見たのでは、逆の反応を呼び覚まさせかねないのではないかとの忠告だった。 中国には「井戸水を飲むときは、井戸を掘った人に(感謝しよう)思いを馳せよう」とでもいったような諺がある。この心を思い出させる諺が日本では思いつかない。 網田さんは、「だから」この素晴らしい四季の情景がいかにして誕生したのか、その経過(プロセス)の説明こそが大切ではないか、と指摘した。その気になれば、誰にでもできるプロセスを、きちんと伝えることこそが大切だとの叱責で、私はハッとした。 「電気も水道も来ていなかった時代」に手を着けたことを、視覚に訴えてはどうか、と網田さんは迫った。私は「これ幸いに」とばかりに立ち上がり、アルミ製の足継ぎを取り出し、隣室に行った。そして、天袋に押し込んであった未整理の写真やフイルムを紙箱ごと持ち出した。 何百枚かの写真に埋もれるようにして、現像済みフイルムを収めた古びた紙のケースが1つだけ混じっていた。なんと、それは、網田さんが「並べて(四季の情景写真と一緒に)飾ってはどうか」と助言した1葉の写真を含んだ(6×6の)ネガフイルムだった。 19歳の浪人時代のことだ。弟が撮ってくれたことが分かった。受検浪人のことで、人格が無視されたような気分にされていた頃の話だ。何を言っても「だから浪人のザマだ」の一言が待っていた。その時に、私は今日の庭のありようを夢に描いている。 だから、受験が終わると、20本の苗木から植え始めている。この時の私の心境は、欲しいものは自分の手で作り出さなくてはならない、であった。そうと思い込まざるをえない境遇に立たされていた、と言えなくもない。 要は、この1枚の写真を含め、プロセスが分かる写真を添えれば、その気になれば誰にでもできることが一目瞭然ではないか、との提言だった。 何百枚かの写真をさぐっていると、その後も次々と懐かしい写真が出てきた。ミニ耕運機を妻が、撮影チームの前で操っている写真。これはヤンマージーゼルのコマーシャルに用いられた。この試作第一号機は、わが家に割引価格で買い求められたが、事情があって2年で廃棄された。 人形工房や喫茶室の建設は1985年に始めたが、その型枠写真も出てきた。当時、勤めていたアパレル会社では(6年ほどで年商を倍増させており)安藤忠雄の設計で複数の建造物を作り始めていた。そのコンセプトに(耐用年数の長いコンクリート構造なのに、窓はハメ殺し、暖冷房は完全人工などと)私は時代錯誤を見出していた。少なくとも100年の計には欠けている、と見た。 そこで、私的に対案をこしらえ、この想いを形にしておくことにした。それがこの、半地下構造だ。つまり井戸の原理(自然の力)も活かすための型枠だ。 そのアパレルに勤め始めて間なしの頃の社長室長と、兼務していた子会社時代の写真もあった。子会社は、新たに百貨店ルートを開発することが目的だった。この写真の操業年から辞めるまでの5年間は、増収増益で推移するが、それはひとえに営業を一手に引き受けた池上常務(隣)をはじめとする努力や、本社の筏常務などの支援のおかげだった。 社長室長としては、1985年ごろから深刻な悩みを抱え始めている。「勝って兜の緒を締める」が大切なのに、バブルの前兆が始まったからだ。この波に乗ることに大反対した私は、苦しかった。それはひとえに日本の風土の問題だった。つまり、期待に反する現実は、気付かないことにしておれば避けて通れる、と思うかのごとき人が多い風土だ。あるいは、反対意見を述べると、それは悪しき現実を招来したがっている査証、と見なされかねない風土だ。思うところを正直に表明するには辞める覚悟が必要だった。 「なんぼの年収と、どんなポジションを用意したらよいの」が社長に言ってもらえた最後の言葉だったが、私の期待は、「ボクは、どう変わったら良いの」であった。 松平佳子さんに、フランス・クリダさんと訪ねてもらった日は雨が降ったことを思い出した。この2人には、新本社落成記念パーティーで連弾を願っている。そのグランドピアノは、リッキーこと佐々木力さんに贈ってもらったものだ。残念なことに、この2人は、今は亡き人になっている。松平さんとは亡くなる数日前のリサイタルで会ったが、肺に水がたまり、足が痛くて、と嘆いていた。もしこのリサイタルをキャンセルし(養生し)ていたら、との思いを抱きながら棺の担ぎ手の1人になった時のことを思い出した。 アメリカの長女(と呼んでいるリズ)が、妻の振袖を着た写真も出てきた。この写真の3年後(の卒業時)に、アメリカから招聘し(手続きにとても苦心惨憺した)、部下の1人になってもらった。会社の国際化も使命の1つであったが、国際感覚は文字や言葉だけでは身に着けにくいと危惧し、思いついたアイデアの現実化だった。 こうした写真が、ほんの数分の間に次々と見つかった。これが偶然のイタズラなら、翌日開いたメールでは偶然の一致に喜ばされている。国境を越えて、わが子のように思っている3人と、近々会えることを知ったことだ。半断食に出かける前に、リズの里帰りの日は決まっていたが、その上に、台湾の息子と中国の娘と思っている2人から「近く訪ねたい」との知らせが入っていた。こうしたことまでが、なぜか網田さんのおかげであるかのような気分にされている。
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バラのアーチ |
撮影チームの前で操っている写真 |
型枠 |
子会社時代の写真 |
子会社時代の写真 |
フランス・クリダさんと訪ねてもらった日 |
松平さんとはなくなる数日前のリサイタルで会った |
リズが、妻の振袖を着た写真 |