厭離庵
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このとても瀟洒な寺は、私の弱った心臓でも、北東の方角に歩いて数分のところにある。にもかかわらず、ルーチンワークを終えた後、藤さんの車で、しかも開宴より1時間も前なのに送り届けてもらった。ゆっくりと外庭で、1人で、幼き頃の思い出にひたりたかったからだ。 厭離庵は車道からかなり奥まったところに入り口がある。その竹藪に挟まれた狭くて長く小道をたどりながら、70年ちかく昔の記憶を懐かしく振り返った。 簡素な外門にたどり着くと、一跨ぎできそうな押し戸があった。内部を覗きこむと、懐かしい情景が飛び込んできた。「あのあたりだった」と、記憶を手繰った。 子どもながらに緊張し、この庭に佇んだ時の思い出だ。ぼんやりとした記憶だが、母か姉のいずれかが、茶道の関係で訪れたが、その折についていった思い出だ。茶会があったのか、習いに行ったのかは確かでないが、その時も人影の記憶はない。 控えめな押し戸を開け、踏み込みながら「あの日と同じだ」と思った。とても静かだ。人の気配はなかった。以前と違ったことは、幼き日は植え込みに遮られ、遠くが見通せなかったが、このたびは見通せたことだ。右手に茅葺の内門のような建物があった。私はあの日と同じく、右に折れず、まっすぐ進むことにした。 先は上り勾配になっており、10段ばかりの石段があった。人の気配がなく、「早すぎたようだ」と、少し躊躇した。かつて訪れた折は尼寺であった。やむなく、招いてくれた友人にケイタイをいれた。 「もう、幾人もお見えになっています」と聞かされ、踏み込むことにした。石段を登りきると、また右手に両開きの引き戸がある建物が見えた。引き戸は開いており、「あそこだな」と、すでに幾人か人を迎え入れた入口だろう、と思った。 周り廊下がある明るい座敷に通された。30席ほどの座布団が用意されていた。その最前列の左端、周り廊下にあった座を選んだ。背は中庭に面している。それがよかった。ほどなく、好感が持てる壮年男性が到着し、隣の席を選び、話しかけてもらえた。すぐに、私を招いてくれた吉田和親さんから、以前に伺っていた人だと分かった。この人も厭離庵の清楚な庭が気に入ったようだ。開演までに少しまだ時間があった。 2人で計らい、開演を待つ間に内庭を巡ることにした。 何もかもが厳選されていながら、控えめだ。周り廊下の外側を巡ると、奥はさらに一段高台になっており、そこに本堂が見えた。 思い切って、その内部にも踏み込ませてもらった。撮影禁止の表示が見当たらなかったことをいいことに、丸窓がついた欄間や天井画までカメラに収めた。 座敷に戻ると、席はあらかた埋まっており、開演時刻が迫っていた。案内のしおりを読んで「しまった」と思った。内庭で見た不思議な橋は楠の木の化石だと記されていた。 開演の挨拶は二谷藤美賀先生があたり、最初の演奏は友人・四宮漣山の独奏で「朝風」だった。プログラムは5曲で、とりわけ4番目の「小督の局」が心に残った。それは、ある愕然たる思い出をよみがえらせたからだ。 70年ほど昔のことだ。姉に連れられて、渡月橋から川沿いに少しさかのぼったところにある「小督の局」の遺跡を訪れている。その後、2度ばかり訪ねた。その1度は29歳の時だ。 学校を出て5年目。私の呼びかけでクラス会を開き、同窓生が大勢集った。「小督の局」の遺跡近くにあった旅館「三友楼」で泊まり、翌早朝の川面にたった霧が、水流を引っ張るかのごとくに流れたおりのことだ。 その後、この一帯の様相をガラリと変える事態が生じている。いわゆるタレントショップブームだ。嘉田由紀子さんがながく「今だけ、金だけ、自分だけ」の風潮の走りであったのかもしれない。北野武のカレーショップから始まり、美空ひばり記念館で終わったが、その途中で「小督の局」の遺跡を台無しにする出店があった。「小督の局」の遺跡にいたる昼なお暗かった小路を切り拓き、うどん屋を出す男があらわれた。 それはともかく、それだけ余計に「小督の局」の曲が心に響いた。寂しさや哀れさ、あるいわ愚かさがひときわ心にしみた。 最後は、二谷・四宮両先生の「秋篠寺」だった。 演奏の後、見事にたてられた抹茶が振る舞われ、生菓子を引き立てた。住職ご夫妻とも挨拶ができた。 |
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竹藪に挟まれた狭くて長く小道 |
一跨ぎできそうな押し戸 |
懐かしい情景 |
茅葺の内門のような建物 |
10段ばかりの石段 |
両開きの引き戸がある建物 |
30席ほどの座布団が用意されていた |
控えめ |
控えめ |
控えめ |
本堂が見えた |
丸窓がついた欄間 |
床の間 |
天井画 |
橋は楠の木の化石 |
開演の挨拶は二谷藤美賀先生があたり |
友人・四宮漣山の独奏
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