かつての勤め先の不調

 

 日本経済新聞(20150519)で不調が報道されたことを知り、「案の定」と思った。後日、その記事が手に入り、忸怩(じくじ)たる思いで読み進んだ。

 25年ほど前のことだが、私の目で見るとこの会社は、「踏み出してはならない道」に踏み出している。その1つは、バブルという言葉が生まれる直前のことで、日本中が浮かれ始めた異様な波に、好機到来とばかりに乗り始めたことだ。株式や土地などへの投機だ、社長は「願望の未来」を目指そうとしたが、私は「必然の未来」に備えるべきだと考えて、反対した。私は言い知れぬ不安に駆られている。その不安が一気に高まったその瞬間に、いわば最後の勝負に出ることにした。それが身の安全のためでもある、と考えた。

 その瞬間とは、社長が役員会で「また森さんだけが反対か」との言葉を吐いた時だ。「これで3度目だ」と考えた。会議の後、大阪に顧問弁護士を訪ねている。ある捺印の是非を相談し、捺印自体には役員として何ら問題はないと知り、帰社後それを社長への最後の贈物とし実行した。同時に、社長との約束は果たせていたので、辞表をしたため、中央郵便局に急いだ。

 身の安全とは、居続けた時にこうむりかねない責めから逃れることだ。異様な波を危惧する私の念が、現実化した時のことだ。縁起の悪い話しが現実化したかのごとくに思われたり、陰で足を引っ張ったかのごとくに誤解されたりしかねない、と思った。

 同時に、そのころすでに(秘書にワープロで)清書し始めてもらっていたいわば建白書があったが、それを一書にまとめ上げて、第三者的に社長に贈った方がよさそうだ、と考えている。1年半後に日の目を見た処女作のことだ。

 社長との約束とは、社長に拾ってもらう時に交わしたジンクスを破る夢だ。年商と経常利益を倍増化する手伝いを求められた。すでにそれは達成され、日本で最優良(増収増益であるだけでなく、収益率最高)のアパレル企業になっていた。建白書は、いわば次の目標の提案であり、質的転換の必要性を訴えようとしていた。

 前職時代に描いていた夢を、立場を変えて、現実化させたく思っていた。前職時代は、その夢をオーガナイズする立場で現実化させたかったが、アパレルにあっては、モデルの1つをつくる立場で、構想していた。

 率先して次代を創出し、移行する夢だ。次代に繁栄する企業へと脱皮する夢だ。

 だが社長は、質的転換は眼中になく、量的飛躍を願い、年商3000億計画を立案している。そして、その一環として、ハメ殺しの窓や全自動の商業ビルを作り始めていた。おり悪しくバブルの兆候が現れ始めており、世の中は消費社会を謳歌し始めた。

 だから処女作には「ポスト消費社会の旗手たち」との副題を付けた。

 次作は2年後の、1990年になったが、オランダのチューリップ事件を取り上げちる。オランダで生じたバブルだが、その歴史を持つオランダ領事館の職員に、土地の取引は「風の取引」と語ってもらい、採用している。

 バブルははじけていなかったが、3000億計画は頓挫しているかのように思われた。経常利益が激減していた。また、やってはならないことをやってしまった、との報道もあった。そこで、第3作を構想した。この会社で過ごした8年間のいわば記録である。この一書は、見本刷を社長におくっている。時を同じくする頃に、「多ブランド化」を思い留まり、「絞り込むように」との提案も届けている。

 だが、その逆さまのことを野放図に横行させる会社になっていった。入社直後に社長の社用車をベンツから国産に切り替えてもらい、役員車を国産に限る決まりを決めてもらった。だが、フェアーリやジャガーも許す会社に戻すなど。

 業態も変えた。専門店とともに歩むと誓ってきた本体を、私が兼務していた子会社(百貨店を顧客とし、創業来増収増益)を吸収し、百貨店を主対象にするかのような業態に変えた。これもやってはならないことの1つと私はように感じた。

 それはともかく、赤字基調の会社になってしまい、ついに縮小計画を採用せざるを得なくなってしまったわけだ。悲しい。どうして『人と地球に優しい企業』になろうとしなかったのか。その厳しさが従業員の誇りになり、経営者の自信に結び付け、社会に存在意義を認めさせる企業になろうとしなかったのか。歯がゆい。

 私の目には、安倍首相はこれと似た失敗をニホンという国に演じさせようとしているように見える、寂しい。