「目的の手段化」

 

 私は、社会人になってから、「こうしたこと」を、あるいは「こうしたコツ」をどうして「学校でもっと教えてくれなかったのか」と、思うことが多々あった。同時に、短大の教員になってから、農業高校出身の学生と付き合うようになり、この疑問が少し解けたような気分にされている。それは、机の上では学べないこと がある、ということだ。

 私たちは五感を駆使して生きている。しかし、いわゆる机の上では視聴覚の二感にたよりがちだし、暑さや寒ささえも空調で制御し、蚊の1匹さえ飛んでこない環境下で学ぶ傾向にあり、残る三感を留守にしている。問題は、その環境で詰め込んだ知識の差で人間を推し量ろうとしているところにある。

 本来は、五感を総出演させる学習がもっとあってよいはずだ。何もかもが刻々と変化する社会でうまく生きる上で、2度と同じことを繰り返さない自然の中で学ぶ べきことがたくさんあるように思う。五感を総出演させ、五感を磨くだけでなく、第六感や第七巻なども養うべきではないか。さもないと、誰しもが持って生まれているはずの潜在能力を悪しき方向に、たとえばゲスの勘繰りや猜疑心などに活かしがちになるのではないか。

 もし、自然の中で学べば身に着けうる何かがあるとすれば、それを身に着けずじまいの人は気の毒だと思う。そうした、いわば片手落ちの人が支配する時空には「危険性」がはら んでいるはずだ。その「危険性」の総和が、昨今の自然破壊を筆頭とする環境問題となって表れているに違いない、と私は睨んでいる。幾度も繰り返してきた指摘だが、科学者やデザイナーが多い国ほど、ゴミが多いだけでなく、環境破壊が進んでいる。

 私たちは、そうした「危険性」を、どうすればいち早く察知できるようになれるのか。「この延長線上には何が待っているのか」と不安になる感覚や、「ムシのしらせ」というものがあるとすれば、それらはどうすれば身に着けやすくなるのか。ムシのしらせのムシは、どうすれば体に棲み着いてもらえるのか。

 人生とは選択と決断の連続だと私は思う。選択と決断の積算が人生だ、と言い直した方がよいのかもしれない。この選択と決断を的確に下す感覚や覚悟は、いかにすれば養えるのか、磨けるのか。空調付きの教室で学んだだけでは片手落ちに違いない。

 そんなことを考えながら、この日も学生と付き合った。いかなる時代を迎えようが、沈着冷静に受けとめ、慌てふためかなくてもよい人になってほしい。むしろ変化があるたびに、「待ってました」とばかりに目を輝かせる人になってほしい。