わが家での最後の食事時、妻は私好みの花を飾った。わずか2週間家を空けただけなのに、帰宅してみると、庭にはケシの姿はすっかりなくなっていた。
楽しい2週間だった。他の皆さんはどのように受け止めたのかは分からない。しかし、私にとっては最初の3日間からありがたい旅のように思われた。半断食プログラムに取りかかるためのよきアプローチの日々、と思われたからだ。
早朝の羽田から橋本宙八親子3人を始め7人のグループは機上の人になった。機上で、子守をする男性を観た。おんぶ紐を用いていた。なぜか心が和んだ。子どもは親の顔ではなく、親の目線を追うかのごとく、周囲に視界を広げていた。
パリのシャルルドゴール空港までは国際便で、そこから国内便でトゥルージュを目指した。早朝にたどり着いたトゥルージュは、フランスでは3番目との大都市。そこで2人の素敵な人に出迎えられた。妊娠9か月目に入った洋子さんと、その連れ合いのフレアンだ。2人には「ここで前泊してもらえたようだ」。
トゥルージュはとても魅力的な都市と見た。高層ビルが見当たらない。投宿するホテルの側のパーキング場の名称がなぜかヴィクトルユーゴー。『レ・ミゼラブル』の著者の名だ。部屋に荷をおいてすぐにロビーで集合、早めの夕食に出かけた。メリーゴーラウンドがあった。街そのものがテーマパークの様相で、めいめいが生活を楽しんでいる。公園があり、石像があった。ヴィクトルユーゴーだ。「ここの出身だろうか」。
洋子さんが案内したレストランは「行き付け」とのことで、BIOレストラン。ディナーは一人16ユーロで、ある制限つきのバイキング。制限とは、大きいお皿1枚か、小さいお皿2枚のいずれかを選び、そこに盛れる限りだ。飲み物は別代金。私は盛り付けの良さを考えて大きい皿を選び、私なりに盛り付け、ビールを添えた。
早朝に目覚めた。朝食は「めいめいで」となっていたし、集合する時間も決まっていた。散歩がしたくなり、ロビーに下りると宙八夫妻の長男、樹生馬さんがいた。そこで、Tシャツに半パン姿の2人は一緒に散歩に出た。足元は素足にサンダルであった。
きれいな朝だった。ゴミ掃除などは夜明け前に済ませてしまう町だ。木曜日なのに人影がなかった。肌寒く、熱い湯に浸かって体を温めたいぐらいだったが、店を開けている八百屋さえなかった。大きな川まで出て、渡って、大回りをして帰路についた。
そのころになってやっと、カウンターバーのある喫茶店を見つけた。店内には人影が少なく、店員と客を合わせて数人だったが、いずれも中・老年の男だけ。ともかくクロワッサンにありつけた。日本の雰囲気に慣れた目には、、朝早くから通勤で急ぐ人たちの気ぜわしさに慣れた目には、少し拍子抜けがする大都市だった。
私たち一行9人は、2台の車に分乗し、この日の投宿先であるモンレンジョにあるレネさんのホテルを目指すことになった。ピレネーの山並みにかなり踏み込み、スペインとの国境にかなり近づいた地点だ。にもかかわらず、かなり迂回して「ホワに案内しよう」と言ってもらえた。古城がある、とのこと。
道中には、まるで宿場町のように、道の両側に石造りの家並が続く村落が点在していた。その家並みが次第にフランス風からスペイン風に変ってゆくように、勝手に感じて楽しんだ。ホワは山合いの平野にあり、赤屋根の城下町が広がっていた。
「次はレネさんのホテル」、と思っていたら、フレアンは「もう一か所、立ちよろう」と提案。なんとそれは、私がポツリと漏らした一言、「このあたりかなあ、アルタミラの洞窟壁画なんかが見つかったところは」に応えてもらえた寄り道であった。
残念ながら、「見学するには雨合羽が必要で、所用時間は2時間」と聴き、洞穴の奥から噴き出してくる冷風だけを実感するに留めた。
中庭の広い2階建ての施設に到着した。マクロビアンの食事療法を実践するホテルであり、20名近くの人が、思い思いに逗留していた。
翌日は、国境を越え、ピレネーの山中にあるトゥールージュという町にある館を目指し、半断食のプログラムが始まる。思えば、前日の夕食はBIOレストランであったから、すでに菜食主義的な食事に移行していたわけだ。体調は軽い。ひょっとしたら願いを成就できるかもしれない、と思い始めた。
願いとは、標高1000mにあるトゥールージュの町から出発し、2300mの山を登り、そこで一泊する計画だ。
トゥールージュには3000m級の山並みの中に、3〜4泊で巡るトレッキングルートがある。その宿泊施設の1つをフレアンが管理している。
階段を上るのもおっくうな私に、登れるかのか。登る気になれるか。
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