かなり熱くなりました

 

 初めての「昼食会」だった。杖を要する仲間が増えており、「暗くなる前に」と家族に諭される人が増えたのだろう。物故者の紹介もあったが、脳と心臓の疾患、そしてガンの3つに限られていた。

 私は最初の海外出張ではホテルを予約せずに飛び出し、2人の仲間が一緒に住まうアパートに転がり込んだ。その2人はともに鬼籍の人になった。もちろん、万年青年のように、髪形も体型も変わらぬ仲間もいたが、奥さんに先立たれており、高級な介護施設に入っており、その紹介もあった。余生は金次第、といお一面無きにしもあらずの世の中だろう。
 
 30年ほど前から見ると、商社勤めの男の平均寿命は随分伸びている。しかし、今日もなお、今日並みの平均寿命から見るとかなり短いに違いない。それもやむなし、の状況に自らを追い込んでいた。独身寮などで酔いが回ると、今にして思えば不遜だが「日本の女子供を幸せにするための先兵になろう」と誓い合い、それを励みにしていた。アメリカとの経済格差は数分の1以下だった。アメリカのように、せめて電気洗濯機や冷蔵庫のある生活が出来る用意豊かな国にしたい、と真面目になって考えていた。

 私はこの日、最後に駆けつけたが、最も親交があった仲間と真向いの席になり、シンミリした話もできた。辞表を出した時も、一番心配してくれた人だ。この男に社長になってもらいたかった。でも、筋が委縮する病で専務の時に倒れた。もし願った通りになっていたら、少なくとも循環型生活が可能な「エコライフ(ニュ−)タウン」が日本に誕生し、観光資源にもなっていたことだろう。そのモデル創りを私はライフワークに選び、エコライフガーデン・アイトワ創りに励むことになった。

 「大分県人として恥ずかしい」という人がいた。この仲間は、「過日、偶然見つけた」と数枚のスナップ写真を話題にした。寮時代に私と一緒に撮った写真のことで、それは奇遇だった。過日私もその写真を見つけ出し、眺めている。網田さんの助言で、古い写真を探したことがあるが、その時のことだ。それがキッカケで話が弾んだ。大分の出身で、村山富市元首相と面識があったようだ。村山さんが教員だったころに、父親と親交があったようだ。それだけに、その謝罪外交が「大分県人として恥ずかしい」と彼は嘆いた。

 「これは大変!」と思ったが、反論せず、時を待つことにした。彼は、知ろうと思えばいくらでも知りうる立場にある。にもかかわらず風評に苛まれている。それは、知りたくないか、知ろうとしたくない何かわだかまりを抱えているのだろう。つまり、今はまだ心を一つにして事実の追求に立ち向かえるときではない。へたすると、そのわだかまりの正当化に走らせ、頑なにしかねない、と思った。そうにない何らかのわだかまりに。彼の無知を指摘するようなことになる。そして、

 わが国では、総理までが、いわゆる「戦争法」のゴリ押しをするために「砂川事件」の最高裁判決を持ち出した。それは2重に恥ずべきことではないか。この点は、「ご存知」の詳述での「ソラ恐ろしいこと」で触れたい。