意見が異なり
|
|
見かけを尊ぶのか、機能が同じなら見かけなどはどうでもよいのか。たとえヘタクソであれ、手作り料理や手洗い洗濯を尊ぶのか、その道のプロに頼るのか。 このたびは、この程度の差異ではなかった。私には、次元が異なる話、と思われた。しかし、「まッ! エエカ」で収めた。それは、あることをフト思い出したからだ。 随分前からワークルームに、空のペイパーバッグが放ってあった。妻の仕業だ。もちろん私も、なにかれとなく放ったらかしにすることがある。しかし私の場 合は「次に書斎に行くときに持って行こう」とか、夕食時の「居間に戻るさいに仕舞おう」とか、いわば締めくくりを考えている。だが妻は、放り出す時は、後のこと を考えずに放り出したまま、「用済み」であるかのごとくになりがちだ。 もちろん私も、似たようなことをするが、そこにはチョットした差異がある。例えば新聞。近年は、食卓が新聞で散らかりがちだ。それは私のセイだ。書斎や読書コー ナーもあるし、居間の前にベンチも置いた。にもかかわらず、このところは書物まで食卓で読みがちだから散らかしがちで、新聞はいわんやおやだ。だからいつも食 卓に新聞が散らかっている。これを妻がゴチャゴチャ言わず、見逃してくれることをありがたく思っている。 私はまず、新聞を広げると、詳しく読むべき記事を選び出す。そして、そのページを取り置きながら、他の記事をななめよみして捨て去って行く。だから、ジックリ読みたい記事があるページが食卓に残ることにらり、次々と溜まる。しかし、必ず日に1度は目を通し、分別し、減らしている。昼寝の友にするとか、睡眠薬代わりにベッドに持ち込むなどして、読み終えるとゴミにするか、書斎に持ち込むなどと分別し、居場所を替えさせる。 この日は、この新聞の問題はさておき、ワークルームに放ったらカシになっていた空のペイパーバッグを問題にした。ペイパーバッグを居間に持ち込み、「どのように、いつ仕舞うのか」と妻に問いかけた。最低でも「また忘れていました。ごめんなさい」程度の返答を期待していたが、そうはゆかなかった。 私の場合は「そのうちに仕舞おうと思っていました」などといった返答は、答えとは認めない。言い訳としか思えない。ペイパーバッグの収納場所を決めてあるのだからキチンと収めるか、ゴミにする(有償のゴミ袋に詰めて出す)か、紙(資源)ゴミとして引き取ってもらうか、を検討し、処置すればよい。さもなくば、「次のペイパーバッグがでた時に一緒に」とか、「3つ溜まった時に、収納場所に仕舞おう、と思っていました」なら、認める。用は、ズルズルと、にならないようにしたい。 もちろん妻は、そのうちにこのペイパーバッグを必要とする事態が生じるかもしれない、と思っていたのかもしれない。それにしても、そうした事態がどのくらいの頻度で生じるのか、人生を60年以上もやって来たのだから、憶測し、ケリを付けてほしい。そうした事態が生じるまで1週間が10日にと、ズルズル放っておくのはオカシイと思う。 そのような考え方では、自分を自らダメ人間にしているようなものだと思う。例えて言えば、初めから「未来は何が起こるかわからない」と開き直ったようなものだ。人間として持ち合わせている知恵を悪用しているようなものだ、と思われる。つまり、野生動物以下に自分を陥れてしまっているのではないか、と思われる。カマキリやホタルでさえ、大雨を予感した時は卵を産み付ける位置などを変え、高いところを選ぶ。人間ははるかに優れたそうした感覚を持ち合わせて生まれているわけだが、それを後天的にそこない、自ら見失うようなことをしていることになる。 そうした油断が溜まり溜まって、今日のあらゆる問題を顕在化させてきたよういしまったように私は見ている。だから妻に、苦言を呈した。 その時に妻は、何を考えた上での話か定かではないが、別の話題を持ち出した。なぜか数日前に取り上げた問題を持ち出した。それはゾウキンで私が顔をぬぐおうとした時のことだ。とても汗が出たので、側にあったタオル状のもので顔をふいたが、「それはゾウキンです」と妻が制した。その時の話しだった。私は「かまわん」といってふき続けたが、妻はそれが気にくわなかったようだ。「私が同じことをしたら、叱るクセに」と食い下がった。この妻の捉え方も乱暴だった。だから私は、「ゾウキンの問題と空のペイパーバッグの問題は別だ」と指摘することを忘れ、ゾウキン論にウッカリ引き込まれてしまった。 かつて妻は、ハッピーを洗った時に自分のバスタオルを用い、私のバスタオルと一緒に洗濯機で洗おうとしたことがある。それを私は諌めた。その時の話を持ち出した。 もちろん私は、キチンと話すべきだと思い、次のように語り始めた。私がゾウキンで顔をぬぐう話と、犬に人間用のバスタオルを用いたり、それを期に犬用に下ろすのではなく、また人間が用いたりしかねない話では、根本が違う、と語った。そして、その根本を次に語ろうとしたが、妻は「同じことです」といって取り合おうとはしなかった。 暑さも厳しかったし、フトあることを思い出したこともあって、この時は「まッ! エエカ」で収めた。 私にしてみれば、私がゾウキンで顔をぬぐうのは「私の勝手」だ、覚悟の上だ、と思う。だが、来客が多いわが家だし、しばしば来客に泊まっていただくわが家だから、犬用と人間用がゴッチャニなりかねないことは避けたい。その後、犬用の洗濯機やバススタオルと人間用を分けている。しかし、よくよく考えれば「同じことか」とも思われ始めた。 それは、フト、私たち2人の出会いがしらをの思い出したからだ。 もちろん私には記憶がない。だが妻はよく覚えており、それが私の第一印象だという。それは、遅ればせながら妻の入社を追認する面接を私がしたときのことで、私がしでかしたという些細な振る舞いが、妻を仰天させっという。 ソファーセットでの面接だったが、私は汗をぬぐったようだ。ハンカチを持ち合わせていなかったのだろう。私はその掌をカーペットにこすりつけ、汗を拭ったという。妻は「なんてことをする人だろう」と、仰天したという。 |
|