文化の破壊

 

 あろうことかアイトワの目の前で、昨年の10月から深刻な文化の破壊行為が始まった。それは、道行く人に迫る執拗な「客引き行為」と、そこで語られる話の内容の問題である。その影響でアイトワの喫茶店では入店客が急減。4割減となった今年の4月に、妻は営業時間を2時間縮め、11;00〜16:00にした。その後、5月のかかりからアイトワの北隣の物件でも、やり口は異なるが、客引き行為が始まり、深刻の度は一段と増した。

 折しも、京都市は、今年4月の定例議会で市内全域での客引き行為を禁止する条例を可決した。その広報紙は当小倉山自治会の各戸にも配られたが、向かいの深刻な文化の破壊行為は、一向に改められる様子はない。「むしろ挑戦的になった」と嘆く人が多い

 向かいは200〜300坪と思われる屋敷だが、35年ほど前に移築された建物があり、借家として活かされてきた。数年前までは、京都の老舗料理屋が嵯峨店として用いていたが、引き払った。その後、3年ほど前にあらたな店子が入るまで空き家であった。新たな店子は、庭を突貫工事で改装し、建物も改装したのかもしれない。ほどなく近辺の人が「怪しげ」と呼ぶ営業が始まった。これは巧妙な客引き行為が始まる以前の話である。

 なぜ「怪しげ」と視られるのか、と気の毒に思った。アイトワの喫茶店がまださしたる影響を受けていないときの話だ。そのわけはすぐに分かった。まず、その店子の挨拶を受けた人が見当たらず、誰もその正体を知らなかったことだ。加えて、高名なホテルが招かれて見学しておきながら、そのホテルの宿泊客に紹介してほしいとの依頼に応じなかったり、従業員が次々と入れ替わったり、ネットでその営業実態を調べた人たちが「具体的な情報が一切盛り込まれていない」といぶかったりしていたことも分かった。

 もちろん、向かい同士なのに、アイトワにも挨拶はない。私は未だに店子の主の顔をまともに見ていない。幾度かピアノの音と10数名と思われる拍手を漏れ聞いたが、妻だけでなくアイトワの喫茶店のスタッフも、それ以外に語る材料を持っていなかった。

 昨年の10月にその様子が一転した。この屋敷には2つの入り口があるが、その両方で判読しにくいポスターのようなものなどをぶら下げて表示し、客引き行為が突如始まったからだ。こうした表示は2つある入り口でなされたが、その2つはアイトワの門扉を挟んで両側にある。1つはアイトワの門扉の左斜め前、2〜3m北にあり、他は右に(つまり南へ)10mほど行ったところにある。その2箇所で、客を待ち受ける商行為が夜明けとともに始まり、日没まで毎日続き始めた。

 この客引き行為を鬼気迫る、と見る人が増え始めた。それは多分に、北と南の両入口で身構える女性の様子がそう感じさせたのだろう。洋軽装の私服の女性が、手箒と塵取りを携え、北の人は常寂光寺の山門前のT字路から折れてくる人を、南の人は小倉池の方向から歩んでくる人を見逃すまいと待ち受けている。そして「来た」と見ると、態度は一変。庭や道の道掃除をしている真似ごと(その前に掃除済み)をしながら、すれ違う間合いを見はからい、声をかける。その声のかけ方は日進月歩した。

 当初は「おはようございます」などとの挨拶だったが、「お散歩ですか」とか「心地よい朝ですね」などに替わり、外国人観光客が増えるにしたがって「Where from?」とか「どちらから」に変った。その間に、たとえば2人連れの女性だと、次のような会話も交わされた。「ごきょうだいですか」「----」「ワカッ!」「----」「ごきょうだいとばかり思いました」など。次第に声を掛けられた人の立ち止まる率が高まった。

 その率が高まった理由は「日進月歩」の他にもありそうだ。この道は、朝夕散歩をする人がとても多かったが、常連者が急減し、始めて通る人の率が高まったことだ。また季節柄、始めて通る人の数も減り、片っ端から執拗に声をかけ得るようになったからだ。散歩の常連者は顔を覚えてもらえないようで、散歩の度に声を掛けられて嫌気がさし、次々とルートを変えていたことを後になって知らされている。

 この率の高まりと反比例してアイトワの喫茶店への来店客が減った。それは当然だと思う。この客引きを振り切って切ってアイトワに入って来た人の体験談によれば、セールストークなどが一転していたからだ。それ以前は、例えば「竜宮城のような」とか「究極の空間」とかいって巧みに誘い、1000円で番茶と干菓子を出し、庭を見学させていたようだが、今度は「究極のカフェ」とか「カフェなんです。究極のカフェです」あるいは「お金では買えないと時間と空間を味わっていただきます」などと呼びかけ、3000円になった。そして、屋内にも誘い、茶菓もしくは少々の酒を振る舞うようになった。

 同時に、客引きする人の数も増え、その執拗さも加速した。たとえば、南入口の女性は、声をかけた人が通り過ぎようとすると、北の入り口あたりまで追いかけて行く。それを振り切った人を、今度は北入口の人が声をかけ、捕まえることもある。

 要は、アイトワの門扉のあたりは、足早にこの執拗な勧誘から逃れようとする人ばかり、と言ったような状況になった。つまり、アイトワを目指して来店する人以外は、客引きに載る人か、足早に通り過ごそうとする人だけのような状況になったわけだ。

 こうした状況である、と妻から知らされた私は2度にわたって「放っておけ」と返答している。その2度目は、営業時間を2時間縮める相談時であった。理由は3つ。このようなことが「そういつまでも続くはずがない」と見たし、「わが家が騒げば、二の舞を演じかねない」との危惧もした。そして、「世間が放っておくわけがない」とも考えた。とりわけ私は「二の舞」を演じかねないことを恐れていた。

 かつてもっと深刻な問題で悩まされたことがある。それは公共物を巧妙に私物化しようとする企みに直面した時のことだ。「運悪く」と言ってよいのだろうか、その企みが発覚した時に、私は輪番制の自治会長を勤めていた。しかも、その主はわが家の奥にある袋地をはるか以前に購入していた人であった。

 このケースは、小倉池といういわば公共物の破壊行為だし、その陰に公共物を私物化するハカリ事が隠れていた。何よりも、名勝池の深刻な景観破壊である。私は深刻に受け止めたし、発覚するまで見過ごしてきた反省もした。そこで、私淑していた常寂光寺の前住職に導かれ、立ち上がった。ついに、当時の自治会役員の連名で、裁判を起こすことになった。もちろんその前に、妥協点を見出すための機会を設けている。

 だが、その人は自治会を脱会し、裁判で不正行為であったことが判明すれば「出て行く」と明言するに至り、第三者の判断を仰ぐことになった。結果、私物化の企てを打ち砕き、小倉池は守れたが、その一部を埋め立てた不法行為は未だに改められていない。

 小倉池の一部を、幅4mほど、長さ60m余にわたって、正式な許可もなく埋め立て、道として使い始めた不法行為が、見逃されたままになっている。しかも、わが家はその不法行為者に逆恨みされている。この二の舞だけは演じたくなかった。

 つまり、これに比べれば、「この度は軽傷」と私は見た。わが家にとっては深刻な営業妨害だが、この点だけを覚悟すれば忍べそうだ、と見た。精神的にはずっと楽だ。もちろん、目には見えにくい公共的な損失は大だろう。つまりうるわしき文化の破壊は見過ごしにはできないだろう。だが、個人が騒げば主観的とのそしりを受けかねない。文化とは、いわば一種の不成文の法律と言ってよいだろう、多くの人が「許せない」と立ち上がるまで「こらえよう。耐えよう」と決めたわけだ。

 そうこうしているうちに、「ぼったくりや」と大声で叫び、110番する観光客も現れた。それ以前から、アイトワに泣きついて来る人だけでなく、同様に大勢の観光客が常寂光寺にも不安や不満の声を届けるようになっていた。

 また、わが家の庭仕事を手伝いに来る学生が「あれはなんですか」「ニッポンの恥ですね」といぶかしげに見るようになった。

 ついに自治会も問題視し、取り上げた。町内の大勢の人が「見るに見かねた」わけだ。とりかけ、常寂光寺の現住職の丁重な助言を、向かいの主が蹴った理由が私には気になった。文化論を持ち出していたからだ。つまり、私はこの地域の「文化(度)を高めようとしている」といって蹴った。これこそ深刻な文化の破壊行為だ。そうだと気付いていないところが恐ろしいし、哀れに思われるようになった。

 そのご、わが家の北隣の物件の手入れが終わり、営業を始めた。それは挑戦的と私にも思われた。まず、その出入り口の側だけでなく、道を挟んだ向かいにある青空パーキングに3台の外車を駐車させはじめた。赤いベンツや緑のジャガーなどである。

 そして、新しい物件では、車を磨く真似をしながら客を待ち受けはじめた。そのセールストークは失笑を禁じ得ない。その部分はともかく、聞き逃せない部分も加わった。自分たちの究極の空間を強調したいがためであろうが「そこいらのお寺なんか目じゃありません」と付け加え始めた。私は新住職の立場や想いをかなり知っており、地域の文化を尊ぶ心意気を熱い思いで支持しているだけに、許し難く思われた。

 いかるべき集会が持たれるようになった。私もその一員として参加した。

 その時に、「未だ歌声を聞いていない」と、残念がる人もいた。深緑の時期になると毎年、とりわけ数名の若い女性連れが、アイトワのモミジのトンネルあたりに差し掛かると、なぜか合唱し始めることがよくあった。それがこの春は一度もなかったようだ。

 もちろん、客引きのセールストークは「なんでもあり」との印象を振りまき続けており、明らかなる嘘がまかり通っている。「それは詐欺行為ではないか」との指摘を受ける事例も多々紹介された。

 かくして、自治会として小倉池の南の端から北にかけて、そして常寂光寺の一帯に、かくなる啓示版が多数立てられるようになった。ことここまで至った以上は、最寄りの関係者としてその背景の一端を明らかにすべきだ、と思うに至った。

 いみじくも今週、亮子さんがわが家を訪れた。その折に前回貸した資料を返してくれた。それは文明と文化の違いを明示した私の意見である。この一文は大学受験を目指して勉強をする若者が用いるテキストの一部として採用され、今も使い続けられている。

 

ポスターのようなものなどをぶら下げて表示

 

 

アイトワの門扉の左斜め前、2〜3m北

他は右に10mほど行ったところにある

すれ違う間合いを見はからい、声をかける

北の入り口あたりまで追いかけて行く

赤いベンツや緑のジャガー

啓示版が多数立てられるようになった