妻の寝言

 

 「孝之さん」と大きな声で、妻に呼ばれた。寝入りばなの1時過ぎ。「シカ」「シカよ」と妻はシッカリした声をあげ、両の手を天井に向けて差しのべていた。

 「どうした」と応えると、妻は夢か錯覚であったことに気付いたのだろう。「シカが覗き込んで」とまで言ってとめ、「いるのヨ」でななく、「いたのよ」と言った。両の手はまだ天井に向けて差しのべたまま、ゆらゆらと揺さぶっていた。

 妻はきっと「久しぶりに緊張しているンだ」と思った。やすむときに、目覚まし時計をかけていた。実は、月曜日の夕刻から、短期逗留者を「翌日は出勤しますが」と言ったのに、受け入れでいた。妻は個展が迫っており、追い込みの最中だ。だから「どうして今頃、条件付きで」と私は思ったが、妻はむしろ期待を込めて、受け入れたのだろう。

 このように考えているうちに、また眠りこんだようだ。次に目覚めたのは。6時前だった。妻は起きだし、目覚ましを鳴らす前にセットを切ったのが分かった。きっとまだ私が眠っているとみて、起こさないように心がけたのだろう。これは、私がサラリーマン時代からの妻の流儀だ。

 当時、私は始発電車で出勤したが、シッカリした朝食を望んだ。だから妻は目覚ましをかけてやすんだものだが、まず目覚ましを鳴らす前に目醒めるように心がけていたようだ。4時台に起き出し、野菜の収穫から1日を始めていた。

 この日の妻は6時前に起き出し、ジャンプ傘を広げ、畑に出た。いつもなら、私は5時前後には目覚めており、PCの人となっているところだ。そして、6時にはほんの短時間だが妻のマッサージをして、あと小1時間ほど眠り直させている。これは、サラリーマン時代のお返しと言えなくもない。ところがこの日は「シカ事件」のせいか、あるいは雨が降っていたせいか、私はベッドにとどまっていた。

 その2日後だった。早朝に「ドサッ」という物音と、同時に目覚ましのベルが鳴った。ベルが先か、ドサッが先か、と思いながら、「どうした」と妻に問いかけると、「ゴメンナサイ」とまず詫びた。そのうえで、「(ベッドから)落ちたノ」と言った。目覚ましを鳴らしてしまい、私を起こしたことを気にかけたかのように、モゾモゾとベッドに這い上がった。

 「やはり緊張しているンだ」と私は思った。実は、逗留者から、初日の帰宅した時、6時頃に「会社は忙しくなったようで」と聞かされ、連日出勤することになった旨を知らされていた。それを妻は受け入れ、また目覚ましをセットして寝ていた。

 この日も雨だった。だから妻と一緒に私は起き出し、PCの人になった。そしてサラリーマン時代を振り返りながら「やはり」と、思った。必要以上に妻を緊張させたようだが、それは私のせいだ、との仮借の念である。朝に弱い妻を、ある種の習い性にしてしまっていたことに対する反省である。「雨に敏感にならざるを得ない習い性」にしていた。

 私は長い間、妻を「持病持ちの人」と思っていた。両親が生きていた頃は、留守番を頼み、年に一度、12月に1〜2泊の温泉旅行をしたりしたが、そうしたすべての機会で、妻は第1日目に、吐き気をもよおし、ご馳走にありつけなかった。「乗り物に弱いの」と言ったが、そうではない。
 
 やがて、その原因がわかった。結婚後16年余が過ぎていた。それは再就職したアパレル企業を唐突に辞めた時のことだ。帰宅し、妻に「辞めてきた」と伝えると「明日は寝坊をしてもよいのですネ」が第一声だった。その後、妻は口を押さえてトイレに駆け込むようなことはまずなくなった。父の葬儀と展示会の追い込みが重なるなど、よほどの睡眠不足にならない限り、なくなった。

 だから、このたびは「やはり雨がセイだ」、と思ったわけだ。

 というのは、サラリーマン時代の通勤は、始発電車を目指し、最寄り駅まで自転車の2人乗りから始まった。帰路は妻が1人で、ダラダラした登り坂をこいで帰った。

 問題は雨の日だった。自転車を使えないから歩かざるを得ない。そのために30分ほど家を早く出ざるを得なかった。前日から雨と分かっておればよいのだが、そうはいかない。天気予報も今ほどあてにはできなかった。だから、妻は雨音に敏感にならざるをえなったのだろう。セットした目覚まし時計よりも早く、雨と分かれば飛び起きなければならなかった。それを習い性にしていたのだろう。