しかるべきイメージはほぼ完成

 

 10日、火曜日の朝、雨は上がり、明るい東の空を見た時の喜びは計り知れない。前夜、やすむ時も「(雨は)あがるだろうか」と私は不安の声をあげている。「あがります」と妻が断言するのが不思議に思っていた。

 まず、囲炉裏場のブルーシートをめくった。朝食後、2つの照明器具を、13段脚立を使ってセットした。伸幸さんが昼に到着。2人で午後4時までに場作りをほぼ片づけた。湯豆腐の会のメンバーの一人が奥さんと、約束通りに一足早く駆けつけ、場作りに参戦。かくして宴の場は5時過ぎまでに完成した。

 長い道のりだった。初めてこの場でBBQをしたのは、25年ほど前の夏にさかのぼる。アイトワ塾のBBQだった。開塾した確か翌年の夏、家族ではせ参じてもらう場として活かした。多くは小さな子どもや幼児連れだった。土や緑、あるいは炎に馴染んでもらいたかった。その後、毎年の行事になり、子どもが大きくなるに従い、家族の集いではなくなった。やがて、子どもが成人する頃から、家族ではなく、ゲストを招く今の姿になっている。

 次に思い出すのは、約20年前の湯豆腐の会だった。この時もまだ、囲炉裏は直径1mほど深さ20cmほど掘り下げた穴で、主として種のついた野草を灰にする焚き火場だった。その穴の上に3本の青竹を組み、鎖で鍋を吊るし、湯豆腐で始め、豚汁でしめた。

 その後、湯豆腐の会とアイトワ塾では、それぞれ昼間にも開いており、その2回は記録が残っている。参加者の一人が、人生で「楽しかったことは」と閻魔さんに問われたら、この昼の宴と応えるだろう、と自叙伝に書き残してもらえた。アイトワ塾の昼の宴は、1999年の雪が降る早春の昼間のことで、これは1年を通して取材が入った番組に収録された。

 「京都、嵐山に愛を見た」との題になったことを、4月28日の放映で知った。1時間番組だったが、母が大腸ガンで緊急入院し、番組のストーリーが大きく変更され、挙句の果ての改題だった。その時にはすでに、囲炉裏は石組になっていた。

 その後、囲炉裏場のクヌギの背丈を詰めて、緑の天蓋にしたり、水屋を設けたり、あるいは311をキッカケに地上げをし、テントが張れるように雨天対策をしたりした。地上げは、佛教大生に手伝ってもらった関係で、またもらい物の古瓦を割って埋め込む作業であったこともあり、長年月を要した。その仮完成時に、歴代リーダー4人に集ってもらい、昼の宴を開いている。

 その後、佛教大生に手伝ってもらい、大きなコンクリート製U字溝を運び込んでもらうなどして、レンガ釜や丸テーブルをこしらえた。さらに最近になって、レンガ釜の足元を、佛教大生に手伝ってもらってレンガ敷きにした。おかげでこの度の10日の宴となった。

 その関係で、水屋の塗装のし直しが急がれ、同志社大学が演習講座の一環で派遣した院生に手掛けてもらった。その後、急いでの水屋に小細工をするなどして、待ちわびていた一家4人を迎えた。レンガ釜の試し使いの機会として活かし、初使用した。

 この度は、木陰に3つの照明器具をしのばせ、かがり火を焚き、夜の宴を開いた。翌日、かがり火の道具を構える場を恒常化させ、宴の場として完成させた。

 思えば長い歳月がかかったが、これが人生だと思う、とりわけ、こうした人生にすれば、何がいかに得られるのか、そして何を失わずに済ませられるのかを若人に気付いてもらいたく思う。

 

明るい東の空を見た時の喜びは計り知れない