習得してもらいたい心

 

 マニュアル社会は失敗を恐れる人を増やしてしまう。マニュアル人間は失敗を恐れがちになる。その延長線上に、指示待ち族の世界が待っていた。

 そして今、惨憺たるたる世の中にしてしまった。なんとか心ある若者だけでも、希望にあふれた人になってもらいたい。

 こうした想いが学生の受け入れを重ねさせて来た。丁度30年前に私を著作に駆り立てたころを思い出させたからだ。次代はマニュアル人間を辛い立場に追い込むに違いないとの想いだった。

 この想いを実らせるには、失敗の体験を通して、つまり4次元の体験を通して心に火をつけてもらうことが先決ではないか。そう思うようになり、その機会の提供に喜びを見出してきた。

 鉈の刃をボロボロにした人がいた。スコップの柄を折り曲げた人がいた。温室のガラスを割った人もいた。そうしたいずれにも、むしろ私は喜んでいた、と思う。なぜならそこには、没頭とか熱心という言葉がピッタリする力と汗がともなっていたからだ。

 このたびも、歓迎すべき出来事が生じた。これまでとは異なる出来事だった。大きな、とりわけ大きなコンニャク芋を掘り出していながら、気を留めずに、与えられた課題に没頭し、取り組み続けるという事態だった。

 これぞ、失敗の体験を通して、つまり4次元の体験を通して心に火をつけてもらうこうきではないか。にもかかわらず、それを気づいたのは妻だった。学生を見送った後で、掘りだされた土の整理をしていた妻が見つけた。そして「このイモならとても高く売れました」と感心した。

 計ってみると1.3kgあった。妻は中学生になるまで、山奥で農業をして生計を立てる生活で育てられている。その折の現金収入源はコンニャク芋であった、という。子どもは、イモを掘りだした畝の後に雨が降り、雨が露わにした小さなコンニャク芋を拾い集める作業を手伝ったようだ。

 そうした半ば自給自足生活が、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の手で未来を切り拓かざるを得ない心意気を養わせたのではないか。