妻は、私が1人で重い犬小屋を、元の位置に戻せたことを驚いた。歳をとった私には、もはや「1人では動かせまい」と思っていたのだろう。
この踏ん張り、父と先代ハッピーが死ぬ前に見せた反応が私を奮い立たせたものだ。
父が死ぬ2週間ほど前の夕刻のことだった。
「オトウサンが、チョットおかしい」と母に知らされ、妻と2人で駆けつけた。20年前のことだ。すでに脳梗塞症状が生じていたのだろう。総入れ歯が口の中で落ちていた。
妻と2人で父を支え持ち、自室に移動させたが、その間のほんの数分間に生じたことフト思い出し、振り返ったわけだ。父はさまざまな反応を示した。
先ず父は、「すまんなあ」と2人に礼を言ったように記憶している。
そのあと、父は右手で何かを操作するようなふりをするなど、さまざまな反応を示した。もちろんその手や足は空を切ったわけだが、私たち2人には父が何をしようとしたのかがよく分かった。
「勝手口を、入ろうとされたのね」と妻はつぶやいた。
「下駄を脱いで、上がろうとしているのだ」と、2人は語り合った。
この父の反応を観察しながら、これこそアイデンティティの根本ではないか、と私には思われた。つまり、長年住み慣れた住居で、住人は住処と自己同一化し、無意識の内に行動できるまでに一体化している、と思わせられた。
私は、己の遠距離通勤時代の思い出も振り返った。28年間のサラリーマン生活も10年間の教員生活も遠距離通勤だったが、ときどき言い知れぬ不安に駆られたことがある。
勤め先が神戸時代と大垣時代は、勤め先の近くに下宿先を設けていたが、時々夜半に目覚め、不安になっている。「今、自分は何処にいるのだ」「どちらで寝ているのだ」との不安だ。これはアイデンティティの問題であったのだろう。出張は、国内外ともにイヤほどしたが、そうした不安を感じた思い出は一度もない。
「そういえば」と次の記憶もよみがえった。先々代のハッピーだ。ハッピーが同じような行動を、錯覚しているのではないか、と思われるような行動をしたことがあった。
死期が近づいた最後は、居間に連れ込み、その一角で、毛布でくるンで過ごさせた。水はいつでも飲めるように、ボールにいれた水をそばにおいてあった。
だが最後の水は、その与えた水を飲まなかった。
夜半だった。物音で目覚めた2人は示しあって起き出し、居間を覗いた。すでにハッピーは四足で立ち上がり、縁に向かって歩み始めていた。被せてあった毛布を剥がしておらず、毛布をかぶったまま引きずる光景は鬼気迫るものがあった。「どうしたのハッピー」と妻は声をかけていたように思う。
「なすがママにさせておこう」と私は妻を制した。しかし、毛布は、妻がはがしたように思う。ヨロヨロと歩んでいたハッピーが、縁先のガラス戸にたどり着いた時には、かぶっていた毛布がなかったように思う。ガラス戸は私が開けたような気がする。次の鮮烈な記憶は、ハッピーがヨタッとしながら踏み石に降りた光景だ。
そして、さらにその先にあったコンクリート製の狭い3段の階段を、ふらつく脚で降りて、右に折れた。当時の中庭には芝を敷いていたが、芝のうえをヨトヨタと歩み続けた。
その先には錦鯉を飼っていた池があった。秋水が棲んでいた。
ハッピーは池のふちにたどり着き、水を飲もうとした。あのまま頭を下げていたら、キッと前のめりになって、冷たい池に転げ込んでいただろう。前脚を上手く折れなくなっていたようだ。私は慌てて駆け寄ったにちがいない。両手で池の水を掬い取り、ハッピーの口元に寄せた。ハッピーはひとしきりその水を飲んだ。
「水が飲みたかったんだ」と私は妻に語りかけた。
ハッピーが何を願っていたのかが分かった後は、私はハッピーを抱きかかえ、元の居間に戻し、毛布を掛けた。毛布にくるまれたハッピーは、何もなかったかのごとくに再び眠りについた。翌朝、その姿のままで、ハピーは冷たくなっていた。
今にして思えば、長らく放し飼いにしていた先々代のハッピーにとっては、水と言えば、あの池の水であったのだろう。自己同一化していたに違いない。
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