目覚めると、脚が痙攣し、その痛さに耐え切れなくなっていた。ガチガチに張った筋を強く指で抑えたりさすったり、脚をさまざまに動かしたりしたが、いっこうに収まらず、完全に正気に戻され、悶々とした。だが、次第にこの目覚めがなぜか尊く思われるようになった。「いやむしろ、尊んで生かさなければいけない」と思った。
それは、これまでとは異なる気付きであり、新たな喜びであったからだ。この喜びを「機を見て敏に活かそう」。記憶に焼き付け、いつでも思い出せるように訓練し、夫婦ゲンカを劇的に減らすことに活かそう、と考えた。
妻は私と違い、真剣に叱られることを嫌う。叱られるのは苦手だ。
私は「死んでしまえ」とばかりに叱る人が好きだ。恨みを買うことなど忘れてしまい、真剣に叱る人が好きだ。「叱る」とは文字通り「匕を首に押し付ける」ことではないか。それがわが家の父や母のしかり方だった。だが、妻は違う。親に叱られたことがない、という。
これは良し悪しではなく、質(タチ)の問題だろう。だからと言って、私には上手におだてる器用さは持ち合わせていない。ならばどうすればよいか、と考えた。こうしたことを考え出すと、私は痛さなどを忘れてしまう。この日もこうして痛さを耐えたが、フト思い出したことがある。
かつて私は結核菌に浸潤されたことがある。そのころは寝床の中で、結核菌とよく語らったものだ。どうしてわが肺に棲み着いたのか、とか、どこまでわが肺で増殖すれば気が済むのだ、と結核菌に問いかけもした。なぜか、当時の心境も思い出してしまった。
そのころから私は、それまでとは異なる「生きる喜び」に浸れるようになっている。この度は、それ以来の新たな「生きる喜び」の発見かもしれない、と思った。
若い頃は「いっそのこと、このまま目覚めなければよいのに」と願ったことがあった。だが、その時とこの度は少し違う。この度は「このまま眠りにつけば、2度と目覚められないのではないか」との思いに浸りそうな時期がそうばんやって来そうな気分にされた。
「そうか」よいことに気付かされた、と考えた。寝床の中で妻と口ゲンカになりそうになれば、この思いをよみがえらせよう。そうすれば、真剣に叱る気にはなれなくなるのではないか。叱ったまま、眠りにつき、本当に死んでしまえば、妻の悲しみを余計に大きくしかねない。
妻のことだから、叱られたら「感謝するよりフテクサれかねない」もしそうなら、「あれが原因で」と考え込まさないとも限らない。それは、私にとって、それこそ不本意である。
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