この庭の狙い

 

 薪風呂まで案内する過程で、杉の落ち枝を次々と私は拾った。風呂焚き場にたどり着くと、それら落ち枝を「焚きつけに用いる」と説明しながら、専用の籠に放り込んだ。

 そして、「雨が降り出しそうなときは、前もって私は杉の落ち枝が雨で濡れる前に拾い集め、こうして放り込んでおく」と付け足した。その乾いたスギの枝葉が、風呂を焚く妻を助けることになるからだ。こうした生き方は、家族の助け合いがとても大切だ、と語った。

 もちろん、「社会人であったころの私は、その逆さまのことをして、成功した」「家族が助け合わなくても済むように工夫をこらし、そのために必要なサービスや品物を開発すると市場が歓迎した」からだ。そうした思いの集積結果が、今日の世の中だろう。

 資源は枯渇した。水や空気は汚れた。コミュニティーが崩壊し、ついに気象も異常である。

 実は当週、『The Asahi Shimbun GLOVE』は、「家事がなくなる日」を特集した。その特集では、「無償の労働・家事労働」「家事代行 日本でも広がる」あるは「テクノロジーの進化で楽に?」などの小見出しが目に留まった。わが国ではまだ「この考え方が魔物」と気付いていない。

 家事労働も外化すれば消費税の対象にでき、GDP600兆円構想に貢献させることができる。だが、母子家庭の相対的貧困率を高めたり、家族のアイデンティティを希薄にしたりしかねない、と気付いている人は少ない。私は、そうと気付き結婚前に妻の意向も確かめ、結婚している。

(自活のすすめ 38 2005 08 19 幸せのバロメーター
(自活のすすめ 58 2006 02 03 苦難を楽しみに

 家事労働や庭造りこそ、誰にも惑わされずに創造力を発揮しうる場であり、アイデンティティ確立の基礎だと見た、だから「こんな生き方を選んだわけだ」と言いたかった。

 だがその時になった、そこで手短に「コンビニエンスショップがあれば、お母さんはいらない」と、述べた。この一言は、とても説得力を発揮した。それは、アメリカにはデービス市など、この問題に真摯に取り組む地域があるからだろう。デービス市は、大学生や大学関係者が市民の半分を占めているが、スーパーマーケットさえ進出させていない。

 要は、「何事も無駄を省くために、手間を省かない生き方が大切だ」と、気付かせたかった。その手間を惜しまず、芸術化すると、アイデンティティの幅や奥行きを広げられ、自己を確立しやすくしてくれる。食事さえが「おふくろの味」になり、アイデンティティの柱の1本になる。そうした柱を増やすために「庭もキャンバスのように活かせる」と気づいてもらいたかった。