案の定
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前日、朴槿恵大統領から安倍首相に、先の従軍慰安婦に関する日韓協定について、「合意の精神に背いている」との警告が寄せられた、と知った。「案の定」、と私は思った。なぜなら、補足説明で、その後の日本の動きや言動がこの警告を発せさせた、と伝えていたからだ。また、私の不安は膨らんだ。「精神」が指摘された点が気がかりだった。「策士策に溺れる」にならないか、との不安である。 日本は、本来は「精神」を尊ぶ国だ。「サムライ日本」と外に向かって胸を張ることができる伝統を誇っている。その「精神」を外から問題視されたからだ。 だが、日本の官僚はこの伝統の「精神」を台無しにしてきた。役人が「最大の努力をします」とか「原則として」などの「精神」に関わりそうな装飾語を着ければ、初めから約束を守る気などない、相手を油断させる方便を用いた、と見た方がよい。この精神を踏みにじる官僚的やり方が、末端の役人はもとより、今や身内でもまかり通る時代にまでなっている事例を、近年さまざまなところで見聞きしている。 要は、日本はこのやり方に慣れ過ぎており「策士策に溺れる」になるのではないか。「サムライ日本」を信じてくれている人よりも、はるかに軽い気持ちで「精神」の問題をとらえ、あしらえそう、と思う気持ちがもたげるのではないか。心配だ。 もちろん、その気持ちは、日本側の気持ちは、幾つかの面から私にも分かる。 その一面でいえば、私にも4つほど「あの時に」と思い当たることがあるからだ。もう一歩で、人生を台無しにしていたに違いない体験や経験だ。ココロでは実行していたわけだから、同罪なのに、出来なかっただけだ。もしできていたら、隠したくなっていたことだろう。影を薄くし、なるべきおとなしくしていたことだろう。 それだけに、言いたい。それは人間の宿命だと思う。宿命だから、隠しても、逆に大ぴらにしても、ともに同じようにほとんどの人には理解してもらえる。要は、その宿命の捉え方の問題だ。今その問題が問題にされており、生産する絶好の機会だ。 その捉え方に、私たち日本人は弱いところがるのではないか。それが日本人のよいところであり、弱いところだと思うが、ここは判断を間違ってほしくない。 要は、人の心には「魔がさす」ことがる。問題は「魔」だ。「魔がさした結果」とはここらあたりで真正面から取り組むクセを、日本人は身に着けてはどうか。そうする上で、日本はとてもありがたい立場にある。トップが率先してみせれば、全体を救える。 この気持ちが、かなり早いときに、私は高めたことがある。それは服飾ファションビジネスに関わり、あろうことかファションをシステムとして取り組もうと考えたことがあり、その時のことだ。仕事としては面白いほどうまくいったが、蹉跌が待っていた。 生きものとして「本来は最も崇高であるべき機能」を、いわばアクセルとブレーキを兼ね備えた装置を、狂わせているだけ、との気付きがもたらした蹉跌だった。つまりブレーキを忘れ、アクセルを踏み込めば、その先に豊かさや幸せが待っている、との錯覚をシステム的に蔓延させているに過ぎない、との気付きがもたらせた蹉跌だった。 なぜそのような錯覚を人間はするのか。どのような時にこの錯覚が生じやすいのか。過去の事例、典型例は何か。つまり、この「ブレーキを踏み忘れ、アクセルを踏み込みがちにさせる錯覚」は、人間のみの宿命ではないか。要は「魔がさす」という言葉の「魔」の問題だ。そして、その「魔」と「魔がさした結果」を手繰っていた先に「脳」があった。 やがて、この「人間のみが持ち合わせた脳」との推測に基づいてビジネスを展開しはじめると、成功率は格段に上がった。その経験が、それまでの「ファッションとファッションビジネス」の定義を確定させ、やがて未来のそれらの定義を追い求めさせた。1970年ごろのことだ。そのころに蹉跌が頭をもたげていたわけだ。 だから後年、拙著(1988年)では、それまでのファッションとファッションビジネスの定義、これからのしかるべき定義、ならびに人間のみが持ち合わせている「3つの脳」を掘り下げている。そして、フランスのオートクチュールにも触れており、当時はオートクチュールは健在だったが、未来はない、あぶない、と断じた。 その伝で言えば、「ファッションビジネス」と「戦争」はとても似たところがある。その中間に、「多くの国では法的に非とされ、オランダでは自己責任問題として是とするビジネス」が位置している。話が横道にそれたようだが、決してそうではない。 「この前の戦争」で、日本は「この中間のビジネス」を生真面目に取り組みながら、生真面目に清算しなかった咎めに今悩まされているに過ぎない、といいたいわけだ。 その戦時中の方のビジネスを「ひた隠そうとした」ところに、そして「旺盛な需要に応じようと無理強いしたところ」に問題があった。それらの清算への「精神」の払い方を根本的に間違っていたが、今は絶好の清算のしどころにある、と言いたい。 戦後にも、「この中間のビジネス」に類似したビジネスを日本政府は現実化させている。そして同類の日本女性を大量に募集し、従事させている。いずれも「戦争」の副産物だ。人間の宿命のごとき「戦争」が再生産させた宿命の現実といえる。 この後者(当事者女性)に払ったような心を、心でなければ国の身勝手を、どうしてかつての外国の当事者には払ってこなかったのか。その存在が知れわたった時に、その当事者が名乗り出なくてもよいように「精神」を傾けなかったのか。 大岡正平は、たしか『野火』で、戦争を実体験していない人間は半ば子どもだ、と言った。その伝で言えば、私たちは子どもだ。戦争という異常を連想する力が弱い。その弱い力で判断を下しがちで、勝手な錯覚をしたくなる。 安倍首相の「よくよく知りながら、なかったことにしよう」とした気持ちも子どもなら、その嘘を信じてしまった国民がいたとすれば、たとえば皇軍が「そんなことをすはずがない」と信じたくなった人も子どもだ。騙す子供と、騙された子供の関係だ。それが生じやす所が日本の弱点の1つだろう。だがそれに、これ以上甘えていてはいけない。 私の場合は、幸いにも「甘えかねない恐れ」を直感し、その直観に基づく意見を即座に記した。その後、先週は、恐れていたことが現実化し始めた。それも知り、その不安も交えて週報にした。 つまり、その後の日本の動きや言動から、この協定は「慰安婦問題は一切がなかったかのごとくに日本が扱おうが」「2度と文句は言うな」「慰安婦問題の話を2度と蒸し返すな、持ち出すな」と韓国にクギを刺せたかのごときムードが漂い始めていた。 韓国では、同様の想いを直感した人が現れていた。まず当事者である従軍慰安婦。次いで学生が、その「不純」あるいは「両国の精神のミスマッチ」を見て取ったようで、反対の意向を表明した。さらに、アンケートでは、若い世代ほど反対者が多いことが分かるようになった。恐れていたことだ。問題を余計に複雑にする。 安倍首相は、世界に向かって、未来世代に負の遺産を引き継がせないことを標榜し、誓ったが、「魔」と「魔がさした結果」をどうするのか。つまり「戦争」と「戦争の副産物」をどう処理するのか。日本はこの「副産物」を生み出しよい「戦争」自体を非とする憲法を持っている。私は原発もこの「魔の副産物」だと見ている。 |