つくづく私は幸せ者だ、と思った。イヤ、幸せ者で終われそうだ、と思ってきた。それにはそれなりのワケがある。
アイトワ誕生のいきさつを12枚の写真で表すことになり、それを日英両語並記で、となった。おのずと英文化はアメリカの長女リズに、と心に決めた。次いで、リズさんの英文化を私なりに活かすには、と思案したが、その意の人、喜田さんにすぐに出合えた。過日の「志賀郷の集」に、トッテンさんに誘われ、ご主人と参加だった。
思えば、トッテンさんとの出会いが奇縁だった。NTTからスピーチの依頼があった時に、その適任者として勧めた人がトッテンさんだった。その根拠は、京都新聞で紹介されたトッテンさんの私生活の記事だったが、それが縁で今日に至っている。
喜田さんのおかげで、このたびリズさんの真価を知り得た。ひょっとすれば、リズさんと喜田さんの出会いの場を、私は設定できるかもしれない。
何故か、いろんなことが繋がってくる。思うに、それは、戦争の激化と父の深刻な病気が重なり、暮らしが一転した幼児期の幸運のおかげであったように思う。それが、「七変人」や源ちゃんとの巡り合いをかなえてくれたおかげだろう、と思った。
七変人や源ちゃんの共通点は、今から思えば、ごく当たり前の人たちであったということだ。引っ越しの挨拶で訪れた初対面の母子(37歳だった母と、小学校入学前年の私)に、敗戦の1年も前に、大声で「奥さん、ニッポンは負けますよ。負けて真っ二つにされますよ」と教えた金子さん。スプートニクが飛んだ夜に、地球を湯たんぽにたとえ、「いつか空になるなあ」とひょうひょうと地下資源の枯渇を語った「知恵遅れ」と呼ばれていた源ちゃん。
食糧不足であったのに、誰一人として山菜を根絶やしにするような採り方をしなかった。それが子ども心に、村の掟だと理解でき、村を愛する心や人を信じる心を養わさられた。と同時に、世の中が豊かになり、教育が行き渡るにつれて、都会からハイカーが繰り出すようになり、たちまちにして山菜が根こそぎなくなった。
そうしたことを通じて、まず山菜の立場への同情から始まり、なるべく遠くを見ること。できれば目には見えないモノを見ようとすること。こうしたクセを養わされていったように思う。というよりも、そうしたクセを持った人に惹きつけられる性質にされた。
これが私にとっての楽観の母になったように思う。辛い事態が現実化すれば「待ってました」と言えるように心構え、それが外れたら「ヨカッタ」と言える気分にしたい。それは希望の源泉でもある、と思う。
多くの人が、だんだん戦況が悪化するほどに、日本の必勝を信じる根拠を勝手に探して安堵しあっていたが、そのが「悲観の母」である、と幼い頃から分かるようになった。それが、やがてめぐり来る失望感を勝手に大きくしている。それではマズイと感じられるようにさせてもらえた。
京都から外に出た話しを聞いたことがない源ちゃんは、地球を湯たんぽに例えたが、源ちゃんのようになりたいと願うようになった。
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