まことに楽しい

 

 この人とは初対面であったが、素晴らしい師匠だ、と思った。2人の弟子と思われる人は頼もしかった。この2人にとっても素晴らしい師匠に違いない。師匠夫人には一度、私の留守中に師匠と来宅願えており、妻は面識がある。きっといつか、近いうちに、この2人の弟子も一緒にアイトワを訪ねてもらいたいもの、と願った。

 「目立て屋」はかつて、京都には50軒もあったそうだが、今は2軒を残すのみ、とか。その1軒、長勝鋸は、師匠夫人を交えた4人で技や匠、あるいは伝統を継承しているようだ。2人の弟子の仕事ぶりを眺めながら、その繊細で丁寧な仕事ぶりに圧倒された。

 持ち込んだ木挽き鋸を手に取り、検討・検品する師匠の姿に惹きつけられた。刃のありようや、あるいは用いられてきた使い手のありようなどが何もかも、見通されてしまいそうで、叱られるのではないか、とさえ感じた。吾が乱暴な使い方を恥じた。

 木製の鞘についても、その材質に始まり、その是非にも言及があった。それがキッカケで、「モチ」の木の用途についてまで意見の交換をした。

 率直に私は、意見を述べたくなった。「どちらを良しとするのか」「どちらを選ぶのか」と、大げさに言えば、これからの人間のありようについて思うところを述べた。その想いを、ノコギリを題材にして述べた。近年の世の中では、ノコギリと言えば、機械で成形し、電気で瞬時に刃先だけ焼き付けた大量生産製品が当たり前に思われるほど、はびこっている。それらは目立てが効かず、刃は使い捨てだ。それが当たり前のような世の中になり、それが人間まで使い捨てにしかねない世の中にしている、と私は思う。

 そのせいだろうが、目立てが効く本来の鋸は、窮地に立たされている。だからだろう。本来の鋸と使い捨ての価格はとても似ている。使い捨ての価格が、本来の鋸の本来の価格を抑えているのだろう。新品の両者の値段はよく似ているし、使い捨ての替え刃の値段と、目立ての代金も似ている。そのどちらを選ぶか。選ぶべきか。

 その選択と決断が大きく人生を変えるのではないか、とさえ私には思われる。これまでは資源を無駄にし、人間を合理化してきたが、このままでいいのか、と叫びたい。

 そう思いながら帰宅後、新聞に目を通していたら、ウイリアム・モリスの記事が目に留まった。ウイリアム・モリスと言えば、私の間接的な恩人である。この人を登場させていたから『ビブギオールカラー・ポスト消費社会の旗手たち』は1988年に世に出たようなところがある。

 ウイリアム・モリスの前に、縄文人(弓や槍を戦争には活かさなかったようだ)の血と江戸時代の文化(300年近くもの間、日本という閉鎖空間の中で戦争を許さず、量ではない質的に大繁栄させた)を挙げている。そして、この人の後に、人間固有の脳を取り上げていた。それらが、編集人である上野武さんに興味を抱いてもらえ、モノにしてもらえた。「ブタ もおだてりゃ木の登る」という諺を教わり、9冊もの本を出す勇気を与えられた。

 それはともかく、師匠夫妻と2人の弟子の前で、おこがましくも、選択と決断について意見を述べた。近未来の姿は見えている、と口を切った。

 第一に、資源の合理化が求められようになり、使い捨ては許されず、本来の鋸を復活させざるを得ない、と指摘した。その心は、人間をこれ以上粗末にし続けあう風潮をどこかで断ち切らないといけない、と言いたかった。

 同時に、本来の鋸の弱点も指摘した。それは、せわしない近代が、つまり人間の合理化が浮かび上がらせた弱点だが、を指摘した。使い捨てを選び、替え刃を携えておれば、待ち時間など要さない。目立ての時間など待っておれるか、の心境にさせてくれる、とまず指摘。次いで、技能不充分で刃を折るなど、傷めてしまっても、使い捨てなら痛手は少ない、と継ぎ足した。

 問題は、道具をいかに位置付けるか、にある。職人の技をいかに評価するか、にある。そのありよう如何が、これからの日本の凋落と、その後の復活問題にさえ関わってくる、と私は思っている。だがこれも、大げさだから、割愛した。
 


素晴らしい師匠だ、と思った