体の延長

 

 本来の道具は人間の体の延長であった。牙や角をもたないかな人間は、ナイフや槍を思い付き、己の体のありようや力の持ち合わせ具合に合わせて道具をモノにして手にして、一体化し、対峙し、近代まで生き延び、繁栄して来た。だから、生み出される結果もおのずと個別性に富んでいた。しいて言えば、カラダの延長としての道具を上手く生かすか、そのセンスの良し悪しが人生を決めて来た。

 今は、規格化の時代だ。人間を分解し、専業化・専門化し、やがては機械に取って代われるように仕向けて来た。ロボットに取って代われるまでの間の「人手」にしてきた。

 そのような立場に置かれながら、人間は、既製服の寸法がピッタリと体に合う、といって己のカラダを自慢げに思いかねないココロの持ち主にされていた。本来は、個別性に富んだ体に合わせるのが筋だろう。それがヒトを尊重したやり方だろう。ところが、その逆の方向に時代は走ってしまった。

 挙句の果ては、人間を大切にしているように見せかけながら油断させ、切磋琢磨を不要にし、人間を粗末にしてきた。簡単に代替が効く人間にしてしまい、リストラを首切りと同義語にまでしてきた。すべて人が職人のごとき生き方をしていたとして中世では、自殺を禁じ、自殺を犯罪のごとくのように扱ってきたが、自殺を野放図に増やしてきた。

 問題はその過程で、様々な弊害も生み出してきたことだ。今の社会を生み出してしまった。水や空気の汚染、資源枯渇、家庭崩壊、地域共同体の破壊、健康障害、いまや気候変動にまで至っている、とグチりたくなった。

 そう思い始めていると、話題は西洋の職人に及んだ。長津勝一親方の評価は、私が見聞し確かめて来た評価を追認させるものであった。日本の職人以上の面を多々備えている。そうして面を親方は冷静に認識していた。PCで、その事例を引き出し、見せてもらえた。「もう1つの事例を」と、「木製のらせん階段を見ましょう」となったところで、舞鶴さんが到着した。