『食べない 死なない 争わない』

 「食べない」では「マクロビアンの半断食」に感謝、あの経験をしておいてヨカッタ、と実感しながら読み進んだ。

 「死なない」では、インド旅行で訪れたマザーテレサの「死を待つ家」を思い返した。喧騒の街から一歩踏み込むと、そこは敬虔なまでに静寂で薄暗く広い空間であった。これは記憶に残る印象であって、現実は程遠い空間であったに違いない。今にして思えば、そこは心安らかに次の門出を待つ人たちが「食べない」世界に踏み出していたわけだ。

 両親の死を振り返り、共に幸せな末期であったことを追認した。

 父の末期は、数日間の植物人間だったが、主治医の2つの目も含め、16の目の前で意志表示をした。その表示は、延命効果を求めて病院に入ることを拒否し、自分の布団で死を待つことを選んだ。その意志を首の降り方を通して2度示したが、思えばそれまでに父は食べない日々を幾日か過ごしていたわけだ。その間に一度、私の手から水を含んでいる。その死は、母によれば、強烈な意思表示であった。享年93。

 ちょうど7年後に死んだ母は、主治医から「もって2〜3日」と宣告されたあとの数10日間は、日に大匙2〜3杯分の水分(脱脂綿にしみこませ妻が与えたリンゴの汁など)しか採っていない。人工肛門になっていたが、その用もなくなっていたわけだ。

 その間に、耳たぶは縮んでなくなり、乳房も消えてなくなった。人工肛門が役立っていた数十日ほど以前までは、その手入時に邪魔になるからと妻にブラジャーを着けさせられたほどの乳房が、影も形もなくなり、少年のような胸になった。

 母の死は、父以上に強烈な意思表示であった。享年93。そのせいだろうか、未だに母のサンダルが、母の花壇に通じる縁側の踏み石で生きている。

 もう一度、『このままでいいんですか』と『次の生き方』を読み直そう、と思った。2人の死をリアルタイムに記録した。わが「記録」と「記憶」を検証し、己を見直したい。

 「争わない」では、胸がすく思いがした。著者の稲葉さんは、カトリックの神父とその副を両親に持ち、洗礼も済ませたたが、今は佛教の尼僧だ。その間に、都庁の職員、判事、沖縄では裁判長なども勤め、今は弁護士でもある。

 その筆者の「争わない」と、私たち夫婦が願ってきた「争わない」は、思いの上では酷似していたことを喜んだ。でも、その覚悟は願いであって、いざと言う時はどう振る舞えるか、自信はない。

 だが、筆者は、ガンジーとインドの民を取り上げている。「争わない」の想いをインドの民はこぞって貫き、独立を勝ち取った。そうと思い直して、少しは自信を増したが、今のインド、文明に汚染され、中毒化しつつあるインドを想い、心が揺らいだ。