運も実力の内 |
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商社勤めの初期に、この言葉を恩人の一人から教えられた。いやそう教えられたことを後年思い出し、反省を繰り返すうちに、この人は恩人になった。 不思議な人だった。今から思えば、アブストラクトの名人であったことになる。だから逆に、昼アンドンのように思う人がいた。この人が大事にすることが、あるいはこだわることが一般的な人と少し異なっており、誤解されることが多かったわけだ。また、好き嫌いが強い人とも思われていたが、それもアブストラクトの結果であったのだろう。 私にとっては一階級飛び越えた上司だったが、「森君ならどうする」などとよく話しかけられた。多くの人は、暇つぶしの相手をさせられていると見たようで同情されたが、私にとっては、とても勉強になった。繊維業界がすでに構造的不況に入っていることも教えられた人だし、その乗り越え方を好き勝手に話しあえたエライ人だった。 次第に、大事にすべきことや、こだわるべきことが見えてきたように思ったものだ。 おかげで、当週を例にとれば、砂利道の補正に取り組むことが、「運の強い人」になる秘訣の1つだと分かるようになった。なっただけでなく、それが楽しくなった。こうした作業が偉大なる「創る喜び」であるとさえ思えるようになった。 工事の都合で、この度はジャリ道に随分土を落とされてしまった。今週はその補正に、10数時間にわたって取り組んだ。土の混じった砂利をすくい取って、ふるいにかけて漉し、砂利と土を分ける。そして砂利は元に戻し、土は別途利用するわけだ。この度は、コケ庭の補修に活かした。強い雨に土が流された跡に敷いて、苔が生えやすくした。 こうした作業をすると、いろんなことが分かってくる。水俣問題に早くから危機意識を抱けたのもこのおかげだ。うっかりまき散らした毒物がいかに厄介なものになるか、即座に解り、身の毛がよだつがごとき気分にさせる。福島に、このたびの原発問題後に4度も足を運んだのも、こうした作業をしてきたおかげだろう。無性にこの目で確かめたくなったわけだが、こうした作業を大事にしてきたおかげだと思う。 あとになって、なぜあんなことをしてしまったのだろうか、と反省することがよくある。それが後になって何に結びつくか、その時は知れたものではない。だが、それが、運の良し悪しに大いにかかわっていそうだ。 今週は、知人がくれた私本のアブストラクトにも相当の時間を割いた。その折に、ハッとさせられたことがある。その私本が取り上げていた「お釈迦様の教え」に目が留まった時のことだ。まず、新宮秀夫先生を思い出した。ついで、「運も実力の内」と教えてくれた人を振り返った。 新宮秀夫先生との出会いは偶然だったが、ありがたかった。いろんなことを学んだ。アブストラクトの超名人だと思う。「やったらアカンことは、やったらアカンのですよ」と聞かされた時は、「そらそうや」程度に受け止めたが、その後がヨカッタ。 「『聖書』が言いたいことも、『論語』が言いたいことも、一緒ですヨ」とその見事なアブストラクトを聞かされた。腰が抜けるほど関心を持って聴き、感心した。なんてことはない、それは「お釈迦様の教え」と同じではないか。私は、コーランについては無知そのものだが、これも似たようなことを教えているのではないか。 「そういえば」と思い出した人が「運も実力の内」と教えてくれた人だった。 反省。「ハンセイ」。 余談だけれど、当週は不思議なこともあった。それは週初の楽しいモーニングコーヒーのおりにはすでに生じていた現象だ。後日談として知り得たことだが、私にはこのお二人の心境がよく分かったような気分にされた。 このお二人は、門扉を入った正面に出現した書庫に、ともにお気づきにならず通り過ぎておられた。妻は「どうして」とビックリしたようだが、私にも似たような体験が、しばしばある。これは是非の問題ではない。こじつけて言えば、当週のテーマ「アブストラクトと運も実力」の2つに少し関係することかもしれない。 このお二人の、この朝のアイトワの印象から、書庫は抜け落ちていたわけだ。これは、アブストラクトの問題だ。書庫はアブストラクトから抜け落ちていたわけだ。この事実よりも、私には他に興味を誘われることがある。このお二人の、この朝のアイトワのこの朝のアブストラクトは何であったのか、ということだ。いつの日にか、今度は私が菓子を用意してモーニングコーヒーに誘いたいものだ。 |
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ふるいにかけて漉し、砂利と土を分ける |
苔が生えやすくした |
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