かねがね気になっていたこと

 

 丁度その時に、妻が様子を伺いに出て来た。きっと、妻が期待していた以上の成果を維さんは上げていたに違いない。

 そこで、後日に備え、3人で重そうな根株を処置することにした。いずれ大勢の学生の手に恵まれる。その時に、望ましき所に移動させ、片づけたい。

 ところが、ユンボで掘りだした大きくて重そうな根株は予想以上に重かった。クス、ネム、そしてカシの3つの根株の処置に手を焼いた。この時に、これも運の強さの1つだと思うのだが、高齢の白人夫婦が通りがかり、助っ人を買って出てもらえた。

 維さんは、遠慮してか、かたくなに手助け不要と言い始めたが、私は制止した。幸運の神は後ろ髪をもっていない、と思っているからだ。問題は、幸運の神であるかどうかの問題だ。期待通りにこの度も、いわば幸運の神だった。礼を言って見送りながら、考えた。

 それは、いつも気にかけて来たことだ。この庭に限っての話だろうが、人種か、国籍の差は分からないが、いつも白人に学ばされていることがある。

 この白人男性は躊躇することなく、門扉から左にほんの数mだがスタスタとパーキング場の一角に踏み込んだ。そこで私たち3人は重たい根株と格闘していた。

 この白人は、私の知る限りのことだが、開園来30年にして初めて、断りもなくここまで踏み込んだ白人第1号だ。後で妻にも聞いてみたが、最初の人でしょう、と言った。ここは自由に踏み込むことをアイトワは認めている。だが、白人は入らない。

 ひょっとすると、門扉を入ったところにあるプライべートの表示が邪魔しているのだろうか。その指し示す方向は私たちの居宅であって、パーキングの方向ではない。現に、中国人を主とする東洋人は入っている。中には入って大騒ぎをする人も多い。

 この違いは何か。何がこの違いを生じさせているのか。とても気になり始めた。きっと、「『創る喜び』と『つぶす喜び』」ではないが、その是非は別にして、行動を左右させる何かがあるに違いない。

 

指し示す方向は私たちの居宅であって、パーキングの方向ではない