この度は2度も「ナルホド」と気付かされ、「これしきのコト」に気付けなかった己の脳の硬化に愛想がつきた。自己卑下することシキリ。さすがに2度目は、「シマッタ」と、ことの本質に気付かされ、「恐ろしいことだ」と思った。そして、311がキッカケで取り組んだ「囲炉裏場のかさ上げ作戦」を振り返った。
「四方徳」を願い、古瓦を活かせば、と考えて取り組んだ、「かさ上げ作戦」のことだ。その時は、側溝にも(棟瓦として使われていた)古瓦を活かした。
この瓦は(「型」を用いたことだろうが)手作りだし、「曲がり」や「角」はなさそうに思われた。第一、古瓦ゆえに、届けられた瓦の中から選ばざるを得ない。そうした状況下で、側溝には曲がる部分もあり、対応が迫られた。この時は、何の躊躇もすることなく2つの棟瓦を斜めに切断し、突き合わせている。また、金属性の側溝蓋も加工した。
にもかかわらず、なぜこの度は躊躇したのか。ここに「ことの本質」が隠されているように思った。どうじに、これが、自己卑下し、劣等感を抱かされる価値だろう、と私には思われた。あえて言えば、このに「運を強くする」秘訣の1つがありそうだ、と思った。後ろ髪のない運の神様をとらえるのは感覚であって思考ではない、と言ってよいはずだ。
自己卑下せざるを得ない時に、あるいは劣等感を抱かざるを得なくなった時に、感覚で立ち向かえるか、思考で立ち向かって仕舞うか。この分かれ目の問題ではないか。
自己卑下せざるを得ない時に、私はいつも感動してしまう。この度も「ありがとう」と妻に飛びつきたい心境だった。間違っても、「それぐらいは私にも分かっていた」との気分にはならないし、この時もなれなかった。そのおかげで、2度目の「自己卑下の二乗」のごとき指摘をされたときは、ポカンと口が開くほど感激し、劣等感を甘き密かのごとくに賞味した。「難問解消」を喜んだ。
もちろん、その作業にただちに移りながら、思考の時間になった。考えるゆとりができた。そして、古瓦でのかつての「かさ上げ作戦」を振り返り、ついには「アイトワ」との名称にたどり着いている。
「かさ上げ作戦」の折は、当初から「既製品」が視野にも思考にも入っておらず、アタマから独自の工夫に立ち向かっている。その時は、極あたり前のごとくに「斜め切断」に取り掛かっている。既製品の「曲がり」や「角」のことなど考えもしていない。それはどうしてか。逆にこの度は、どうして、既製の「曲がり」や「角」がないと知った時に躊躇したのか。それはどうしてか。気になった。そして「自らワナにかかっていただけ、と気付かされた。
かねがね、何もかもを既製品化する世の中を私は嘆いてきた。まず「欲望」を抱くと同時に既製品を思い浮かべる思考を、つまり「既製品が当たり前になってしまった社会」を恐れてきた。同時に「オチョクッテ育てる社会のありよう」にも不安を抱いてきた。「オチョクッテ」とは、相手をホンワカとした気分にさせるやり方であり、これぞ真の「上から目線」ではないか。つまり「ほめて育てよ」作戦のことだ ⇒しかり、私もそう思う。もっと厳しくせねばならない
この2つが、「既製品が当たり前の社会」で、「オチョクッテ育てる社会のありよう」が、真の「生きる力」を疎外しているに違いない。それが突き進むと「不平や不満」が頭をもたげ、「嫉妬」や「意地悪」の芽を育て、足元をぐらつかせ、他力本願にされてしまい、ついには運の「ツキ」を遠ざけさせられてしまうのではないか。
世の中が狂い始めた最初は、ここのあるのではないか。たとえば、田舎を訪れた折に、迎えてくださった人たちが、よく「ナーンもないところですが」と挨拶するようになった時期があるが、そのころからヒトのココロはおかしくなったように思う。
自己卑下の機会を、財産の内だと思える自分であり続けたい。
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