小泉元首相の講演(2016年3月10日)
講演のタイトルは「原発ゼロから見える日本の姿」について。
小泉元首相 (会場の福島市公会堂がある)福島市三春町というのですが、私の横須賀の自宅が横須賀市三春町なのです。何か自分が住んでいる気がして、同じ地名なので。今日は佐藤弥衛門さんが自然エネルギーでこれから福島を発展させよう。そういう基金を創立したと。この困難な災害に屈せず、立ち上がっていこうという努力に敬意を表したいと思って、やって参りました。福島県、昔の会津藩といいますが、少し歴史を振り返ると、福島の方々は耐え難い苦労をしてきたのですよね。わずか百五十年前、戊辰戦争。松平藩主をはじめ、日本の藩の中でもっとも朝廷に対して、幕府に対しても忠誠心を持っていた。それが、時の将軍、徳川慶喜将軍が鳥羽伏見の戦いで戦況不利と見るや、前日まで部下の兵士に対して「たとえ一騎になっても決して退くな」と激を飛ばした。「徹底的に戦え」と。それが戦況不利と聞いて、大阪城から逃げてしまった。指導者としてあるまじき行動をした。そのときから会津藩は朝敵、賊軍という汚名を着せられて、最後まで戦ってきた。まさに塗炭の苦しみをしたのです。「塗炭の苦しみ」という表現、まさに泥にまみれて火で焼かれるような苦しみに見舞われたのです。
にもかかわらず、逆境にめげず、今日まで先輩たちは戦ってきて、立派な県に仕立て上げてきた。その矢先に、この前の地震、津波、原発メルトダウンという大災害にまた見舞われた。まさに悲運としか言いようがない。五年たったけれども多くの人が故郷に戻れない。復興、これから長い年月がかかる。そういう中で、この過ちを、災いを福に転じようとして立ち上がっている姿は、多くの国民が感銘をしておりますし、私もその一人であります。今日、ここにお越しの方も、常々志を持って、原発をなくして自然エネルギーをこれからの発展に活かそうという気持ちで頑張っておられる方だと思っております。
私は現在、城南信用金庫の名誉所長をおおせつかっております。実は、初代の名誉所長は、慶応大学の教授をされた加藤寛先生なのです。政府の税制調査会で、あるいは政府のさまざまな経済政策で助言をし、政府内で信頼された経済学者でありました。
その加藤寛先生が亡くなる前にですね。「原発ゼロで日本は経済発展できる」という本を発行された。亡くなってから、加藤先生までが原発ゼロで日本は経済発展できるという本を発行されていたということを知りまして、当時の城南信金の吉原さん、今日もお見えですよ。城南信金だけの問題ではない。これから城南信金は、原発ゼロでやっている中小企業を支援しようということをはっきりと打ち出した。これを新聞で拝読して、「いいことだな」「頑張ってください」と激励したら、吉原さんが「それでは加藤先生の後の名誉所長をやって下さい」というものですから、それは加藤先生の後だったらね、それに「原発ゼロでこれからやっていこう」という意欲を持っていることで、少しでもお役に立てればということで今、名誉所長を仰せつかっています。今日も一緒にここに伺って来ているわけであります。
考えてみると、会津藩は逆境に屈しない“会津魂”を持っているのですかね。前に知事をやられた佐藤栄佐久さん、今日、お見えになっているかどうか分かりませんが、佐藤栄佐久さんが知事の時代に「会津に思う」というエッセーを書いていらっしゃって、そこに面白いことを書いておられる。「会津の三泣き」という言葉がある。三回泣くということです。どういうことかと言うと、他の会津以外の県の人達が転勤とか出張とかで「しばらく会津に行け」「働いて来い」と言われると、大体、そういう人達は「あんな雪深い田舎、会津に行くのは嫌だな」と言って、まず一泣きするそうです。
そして、しばらく生活をしてみると、会津人の人々の心の気遣い、優しさ、厚い人情に触れてね、それで泣く。二泣きをする。三つ目は、名残惜しんでいよいよ会津を離れるということになると、せっかく会津の人達と親しくなったのに別れるのは辛い。そこで会津の三泣きという言葉が出来たという随筆、私も読んだことがあるのです。
なるほど、どんな苦労があっても挫けないのだな。また人情の厚さ、会津人の気骨というか、志というのは、素晴らしいものだなと考えておりまして、そのような会津の人達が大震災の困難の中、立ち上がることをされている。
もう、あの大震災から五年ですよね。五年経って、「当時の事故から学ぼう」という、「教訓を活かそう」と言う気持ちというか、雰囲気が崩れようとしている。壊れようとしている。また壊そうとしている人がだんだん出て来ていることに憤慨している一人なのです。
そもそも、あの事故以来、原発は安全じゃないということが多くの人達が分かったわけです。そして、政府も出来るだけ原発の依存度を減らしていくことを掲げていた。ところが最近、出来るだけ原発を維持しようという姿勢に変わってきた。これはおかしいのではないか。
なおかつ、絶対に安全と言われていた原子炉から放射能を拡散させた。これからは、原発の格納容器に、使用期限を考えていかなければならない。長く使えば使うほど、原子炉容器は劣化する、脆くなる。だからこそ、原発の寿命は原則として四十年使ったら、期限が来たら廃炉にしようということにしたでしょう。それが今、六十年前延ばしてもいいという方向が出てきた。どんな機械も長く使えば、劣化します。しかも「原子炉容器は、ウラン、プルトニウムで劣化するから四十年で廃炉にしよう」と言っていた。
新設すると、金もかかるし、住民の反対もある。だから何とか使用期限を長くしようと。こういう考えだと思うのですが、それは安全第一とは違っているのです。安全第一で原則四十年にしたのです。二度と爆発しないように、事故を起こさないように。安全第一ではない。収益第一、経営第一になってしまった。(原発事故前に)戻って来てしまっている。これはいかんなと。
そもそも、私が「原発ゼロを直ちに政治が示すべきだ」と言っているのか。総理の時に原発は安全だということで信用していたのです。私が総理時代にも、「原発が危険で止めた方がいい」と言っている人は一杯いたのです。私が原子炉技術のことについては知りませんでしたから、専門家の人の意見を聞くわけです。そうすると、「日本にはエネルギーがない」「ほとんど外国から輸入している」。となると、「原発はコストが安くて、安全で、クリーンエネルギーで、資源のない日本としては永遠のエネルギーだ」と。原発の廃棄物を燃やせば、また燃料が出来る。夢のエネルギーです。「安全」「コストが安い」「クリーンエネルギー」「CO2は出さない」。これを「そうかな」と信じて推進していた。「総理の時に推進して、辞めたら原発ゼロと言うのはおかしいではないか」「無責任ではないか」と言われますけれども、幸いにして総理を辞めて、引退をして、時間が出来ると、勉強する時間が出来ます。いろいろ本を読んでみました。原発の本を読んだり、原発の危険性についての映画を見たり、話を聞いたりしているうちに、「安全」「コストが安い」「クリーンエネルギー」。この推進論者が声を大にして宣伝していた三大スローガン、全部、ウソだと分かったのです。ウソだと分かって、いかに政界を引退しても、ウソのまま黙っているのは。ウソを信じた自分の不明、これを反省するのは当然なのですが、騙された悔しさですね。まあ、「騙された私があほやねん」という歌があったけれども、騙された方が悪かったのですね。
しかし、私なりに勉強をすればするほど、この「安全」「コスト安い」「クリーンネルギー」。ますます自信を持って「嘘だ」と言い切れるように確信を持ったから、原発ゼロを直ちにしなければならない。(しかし安倍政権は)今でも推進している。
あの当時、いろいろ勉強していくと、「専門家がこういうことを言っていた」という記録が出てきたのです。正確を期すためにメモを持ってきた。専門家の人が何と言っていたのか。
「日本の原発はチェルノブイリと違って、核燃料のウランやプルトニウムを包み込む原子炉容器をさらに囲む格納容器がある。これが多重防護だ。トラブルや事故を起こしたとしても、放射能物質を外に漏らさない」と(言って)推進していた。大PRしていた。
事実、元経済企画庁の原子力局長はこういうことを言っているのです。「地元の住民が県外に避難しなければいけないということは絶対いない。そういうことがあったとしても、それが大事故につながらないというのが多重防護であります」と(言っていた)。原子力局長ですよ。これは信じますよね。
なおかつ大手新聞の科学部担当記者。名前は言わない。「原子炉が安全に出来ているのかは本質的なことではない。原子炉は何があっても安全というものの考え方が重要である」と。驚いてしまうよね。これは、有名な大手新聞社の科学担当記者ですよ。
大体、こう言われれば、信用しますよ。それが、あの原発メルトダウン事故が起きた。
今でも、地震で原発が作動しなくなったのか、津波で作動しなくなったのかというのは分かっていない。人が入れない。五年経っても内部の状況は分かっていないのです。
汚染水だってコントロールされていないのです。「(汚染水はコントロール)されている」と言った人はいたけれども。
五年経っても人々が帰ることが出来ない。故郷が無くなってしまう。最近、推進派は「小泉さん、機械なんか絶対安全なものはありませんよ。事故を起こすものですよ」と言っている。「事故を起こすリスクと、現在、その機械で恩恵を受けている利便性を考えて、科学技術はある。たとえ、かなりリスクがあったとしても、故障の可能性があるとしても、どれだけの便益を受けているのか。そういう考えを持って技術開発をしていけばいいのだ」と言っているのだけれども、「1979年のスリーマイル、1986年のチェルノブイリ、その事故が起きた時も、日本はさらに多重防護をしているから大丈夫だ」と専門家は言っていた。我々、国民も信じていた。
それが、大事故ですよ。考えてみると、廃炉にするにしても、四十年間、五十年間かかるのですから、いま生きている人はほとんど、四十年、五十年放射能の危険性がなくならないと、中に入れませんよ。
故郷がなくなってしまう。飛行機事故や自動車事故にしても、一定の期間、一定の地域が悲惨な目に遭う。しかし、原発が一たび事故を起こしたら故郷が無くなってしまう。しかも、五年前の福島メルトダウン、最悪の事態、もう一回爆発していたら、日本国民、二五〇キロ圏内の人は避難しないといけない。ということは、東北を含めて、東京を含めて避難する。「約五千万人の人々が避難しなくてはいけない最悪の事態が来るかも知れない」ということを想定したわけです。仮に、もう一基、原発がメルトダウンを起こしていたら、そうなっていた可能性がある。幸運にも、それがなかった。だから今の程度で済んでいるという話ですよ。
五千万人、避難ですよ。一億二千万人しかいないのに、五千万人がどこに避難するのですか。
日本全国が壊滅に瀕するぐらいの事故の可能性を持ったのが原発ですよ。それは、絶対安全と言いながら、この体たらくです。それに、世界に比べて地震、津波、噴火がいつ起こるか分からない。アメリカやロシアや中国やインドと違って、過疎地はない。だから原発というのは、事故があってもいいという代物ではない。事故を絶対に起こしてはならない産業が原発産業だと思うのです。推進論者が「事故はいつか必ず起きる」と言っているわけですから、その時に住んでいた人は悲惨ですよ。「安全な産業なんかありえないよ」(と専門家は言っている)。
で、安全対策。この福島の原発事故がある前に、当時の原子力安全委員長は、いろいろな、「まだ安全対策が十分ではない」と言われた人に対して、こう言っているのです。「もう十分な安全対策をしております。もし、そのような安全対策をしなければいけない場合、原発は採算が取れない。原発政策が成り立たない」というようなことを言っているのです。当時、事故が起きる前、東電が補完・拡充をしていれば、防げた可能性がなきにしもあらず、だったのです。当時から安全第一ではなかった。収益第一、採算第一だったのです。今また、そこに戻ろうとしているのです。
これは変えていかなければならない。事実、私が総理を辞めて講演を始めた時も、講演活動をしていた時に「原発は危険だ」ということで「依存度をどんどん下げていかないとならない」と言っていたのですが、2013年でしたか、今から二年半前くらいに、毎日新聞の記者と話した時に「日本は原発ゼロでやらないといけない。日本だったら出来る」と話をしたことが記事になった。そこで、急に注目されたのです。「元総理の小泉が原発ゼロを講演している」。それで、原発ゼロが知れ渡りまして、原発推進論者の大企業の経営者たちも、「元総理の小泉さん、すぐに原発ゼロは無理ですよ。それは少し控えてもらえませんか」という声が出てきたものですから、「今までの私の主張を変えることは出来ない」と言って、今も続けているわけですが、その当時、推進論者の皆さんは「将来、原発ゼロは分かるのですが、直ちにゼロはやっていけません。高い油を買わないといけない。自然エネルギーはまだ数パーセントしかない。まだ無理ですよ。いずれ寒い冬が来て、暑い夏が来れば、エアコンが止まってしまう」と言っていたのです。
ところが2013年9月から丸二年、寒い冬も暑い夏も大都市の東京を含めて停電をすることがない。安定的に電力を供給できたのです。二年だけではない。2011年3月の事故から2013年9月まで原発は二基しか動いていなかった。それから丸二年、原発ゼロになった。そして、最近、二基、三基動き出した。丸五年実質原発ゼロでやってきているわけです。やれば、出来た。停電もない。電気は余ってしまった。この事実は重いです。(ほとんど)原発ゼロでこの五年、日本はやってきた。
油だって一バレル当たり百ドルだったのが、まさか三十ドル台になるとはその頃は思っていなかったでしょう。百ドル超えていたのに、いまは一バレル当たり三十ドル前後でしょう。こういうことを考えると、原発二基三基、(その分は)もう自然エネルギーで十分できます。
だから日本人というのは、こういう困難な境遇に直面しても挫けない。「必要は発明の母」という言葉があるのですけれども、何となく乗り切ってしまう。困難な問題があると、何とか切り抜けようとする知恵が生まれてくる。そういう能力を持った民族だと思いますね。
私が「この五年間、ほとんど原発ゼロで出来たのだよ」と言うと、「ああそうか」と。
しかし今年の四月から電力会社は地域独占だった。今度、ガス会社も他の業界も参入してもいいようになると、早々に料金は上げられないようになる。最近、これから自由化になって、さまざまな業界と競争しないといけない。となると、「原発政策は政府が支援しないと成り立たなくなる」と言い出した。
「(原発は)一番コストが安い」と言っていたじゃないか。原発は一番コストが安いから、どんな産業が参入してもやっていけると思っていたら、そうじゃない。「原発は政府が支援しないと成り立たない」ということは、「国民の税金を原発会社に渡してくれないとやっていけない」ということですよ。
事実、「コスト安い」というのはとんでもないですよ。原発ほどお金がかかる産業はないのです。しかも、政府の支援が必要。というのは国民の税金です。
まず、事故が起こった後、避難者に対して被災者に対して賠償しないといけない。東電だけで出来るのですか。政府が支援をしないと出来ないですよ。
原発立。OKする地方自治体に対しても、交付金を渡さないと地元が了解しない。これだって税金です。
廃炉。原発を止めたとしても四十年、五十年、廃炉の原発技術者を養成しないといけない。これも政府の支援なくして原発会社は出来ないですよ。そういうコストが入っていないのだから。原子炉のウランを使って発電する時だけでしょう、コストが安いというのは。今、民間の金融機関も政府の支援ないと原発会社に融資をしませんよ。不良債権になる。政府が支援しないと、今までの融資が返ってこなくなる。政府の保障、国民の税金があるから融資をする。金がどんどんかかる。
佐藤弥衛門さんが自然エネルギーの基金を設立したけれども、今までは数パーセントしかなかったけれども、これからどんどん増えてきます。太陽光にしても水力にしても地熱にしてバイオマスにしても。波の力を利用するにしても。日本にある自然エネルギーをどうやって我々の電力に活かしていくのか。技術はどんどん発達していくし、自然エネルギーのコストは、大量生産が始まれば、どんどん安くなる。
逆に原発産業は、安全対策をもっとしないといけないから、ますます金がかかってくる。館くい虫です。去年の十一月、普通の原発会社は電気を発電する。核の廃棄物が出る。ところが、その廃棄物を新しい燃料にする「もんじゅ」。高速増殖炉。核のごみをさらに燃料として利用できる。まさに「文殊の知恵だ」ということで、「もんじゅ」と名前をつけたのです。
とんでもなかった。1985年、もんじゅは永遠のエネルギー。資源を輸入しなくて済む。原発は素晴らしい。世界でどこもやっていない技術を日本はやっていこう。「もんじゅ」という名前は何か仏様か菩薩様を感じていいなと思っていた。それが十年経って完成した。1995年、わずか数ヶ月で事故を起こして、それ以来、二十年、一回も稼働していない。
その担当した経営者は、原子力安全委員会が事故が起きるたびに「こういうことが必要だ」「点検しなさい」と様々な忠告をしているのだけれども、全然守っていなかった。それが分かったから「経営者を変えて新しい施設を作れ」という勧告を出した。半年ぐらいで結論を出さないといけない。30年かかっているのですよ。
ほとんど数ヶ月しか発電しない。それ以降、すぐに事故を起こしてダメ。文殊の知恵が出て来なかったのですね。そして何と30年間、一兆一千億円、国費です。そのもんじゅを作るのに。
いま維持している費用、一日維持費が五千万円かかるというのです。何も電気を発電しないのに。いつ完成するのか分からない。いつ稼働できるのかが分からない。「経営者は変えろ」と言われている。民間の原発会社も引き受けない。これをどうするのかで、これは大きな問題です。これだけひどいことを見れば、「止めろ」というのが常識です。それが違うのです。これを維持したいという勢力があるのです。
本当に不思議な、呆れる話が多いのです。私が腑に落ちない話の一つに、産廃業者は産業廃棄物は処理しないといけない。勝手に捨てたりしてはいけないという。自動車とか冷蔵庫とか、ビルを解体したりということはありますよ。その処分場は、自分が見つけない限り、都道府県知事は許可を降ろさない。にもかかわらず、産廃のゴミどころではないですよ、核のゴミは。もっと危険性がある。にもかからず、どうして国は許可をするのですか。これはおかしいと思いませんか。
本当は許可してはいけないのです。自分の各会社、東電をはじめどの原発会社も、核の廃棄物が貯まりに貯まっているじゃないですか。どこにも見つけられないじゃないですか、未だに。
その廃棄物があるのは、フィンランドに行けば、出来ていますけれども、それだって「外国の核廃棄物は受け入れない」という前提で作って、地下四百メートルから二キロ四方に作って、そこに頑丈な筒に核廃棄物を埋め込んで、地下四百メートル地下の広場に埋めている。それでもオンカロは二基分の核廃棄物の容量しかない。世界でそこにしか出来ていない。
「小泉さん、総理の時に作らなかったから無責任だ」と言われるけど、どこの国も出来ていない。自治体が手をあげるのを待っていたけれども、どこも手をあげない。だから去年ですか、政府は(自治体が)手をあげて出て来ないから「政府が決める」と言い出した。
未だに一つも出来ていない。しかも再稼働をすれば、またゴミが増える。そういう段階で、OKするなんて、無理なことを言っているのです。(原発)ゼロにするから、これから原発を止めにするから、千年、万年、放射能を取り出さないような処分場を作らなくても、百年でも二百年でも持つ中間処分場をどこかに作っていかないといけない。それを作るのも大変なのです。
「(原発を)ゼロにする」という方針がないと、国民はなかなかOKしてくれないのではないかと私は思っているのです。
現にいま、毎日除染作業で、いまでも六千人から七千人の作業員が原発の中に除染対策や事故対策で入っている。防護服を着ている。あの防護服、使い回しが出来ない。毎回、全部変えないといけない。6千着から7千着。手袋にしても長靴にしても、放射能を浴びるから。その防護服を作っている会社はいいかも知れないけれども、実際は毎日捨てるのだから、処分してくれ、焼いてくれないかということでOKをする自治体は、福島県内でも一つもないでしょう。焼却すれば、放射能が拡散するから。
どうするのか。「これから(福島第一原発の)敷地内に、焼いても放射能を拡散しない焼却場を作ることを検討する」というのだから。
それなのに、どうして原発の稼働を許可するのか分からない。分からないことだらけです。「クリーンエネルギー」というけれども、CO2よりももっと危険な廃棄物を出している。こういう状況で、なお、原子力規制委員会が事故後の新しい厳しい基準に合格した。原子力規制委員長は、新しい基準に合格したけれども、「私は安全とは申上げない」と言っているのです。
規制委員会として「世界一厳しい基準だ」と(言っている)。(海外の国の)どことも比べていないのに、よくもあんなことを言えるなと。呆れる限りです。
私は昨年、函館市長が大間の原発、目と鼻の先で、あそこで事故を起こしたら函館(市民)が避難をしないといけない。大間の原発まで函館まで30キロ圏内なのです。大間の住人は、10万人も住んでいないでしょう。それはOKしたでしょう。ところが函館は30キロ圏内だから、もし事故が起こった場合、放射能が来る。避難しないといけない。避難の計画を作らないといけない。法律に義務づけられているのです。「30キロ圏内の自治体は、事故が起こった場合の避難計画を策定しないといけない」と。
ところが、その原発会社から説明を受けることもない。拒否権もない。市長をはじめ市議会全会一致で「これはおかしいではないか」と。
大間の原発は目と鼻の先で、大間の人達も病気になると、青森に行かないで船で函館に行く人がけっこういる。それほど近い。三十キロ圏は避難計画を作成する義務があるにもかかわらず、全然、説明にも来ないということで抗議をしているわけです。市長が先頭になって議会が自民党から共産党まで全会一致ですよ。
そういう法律の不備がありながら、知っていながら何もしないのですよ。「憤慨するのは当たり前だ」と言って、この前行って来たのですが、こういうことを考えると、「このまま黙っていると、『どんどん、国民は反対しない抵抗しないから、原発をまたやっていこう』なんて空気が助長されてしまってはいけない」と思って、たった今も、これからもまた事故が起きるかも知れない。そういうのを阻止しなければいけないと思って私は(講演活動を)やっている。
日本人というのはピンチをチャンスにしてきました。「昭和16年夏の敗戦」という都知事をやった作家時代、猪瀬直樹さんが今から30年前にそういう本を出した。「昭和20年夏の敗戦」なら分かるけれども、どうして「昭和16年夏の敗戦」なのかと思って読んでみた。
なるほど(と思った)。昭和16年夏、近衛内閣。アメリカときな臭くなってきた。「アメリカと日本が戦うと、どうなるのか。そのリポートを出せ」と。閣議決定をして、日本総力戦研究所というシンクタンクを作ったのです。そして、四ヶ月後、昭和16年8月、近衛内閣は閣僚の前でその結果を報告している。その資料を丹念に調べた本です。各省庁のエリート、有識者の30人くらいの研究員が結論を出した報告書を閣議で報告した。結論はどうだったのか。
「もし、アメリカと戦ったら日本は必ず負けます」と報告した。昭和16年8月。
しかし、「それは机上の空論だ」と言って無視された。昭和16年12月、真珠湾攻撃をして戦争に突入した結果、完敗ですよ。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という孫子の言葉がありますが、アメリカの経済力、国力が分かっていなかった。日本人自身の東南アジアからオーストラリアからハワイまで攻撃していく食糧供給路線もない。武器もない。弾薬もない。兵士が可愛そうですよ。300万人以上の国民が命を落とした。
しかし(戦争をする前に)連合国から「満州国から撤退しろ」と言われた時に「満州は日本の生命線だ」「多くの犠牲のもとに満州を建国した。撤退したら日本はやっていけない」と言っていたのに、負けて満州を失った、台湾を失った、朝鮮を失った。なくなったのに戦前以上に発展したではないか。
戦後、石油ショック。一番混乱が大きかった経済危機でした。何しろ昭和48年の中東のアラブとの戦争で、当時までは一バレル当たり二ドル前後だった。それが、十ドル、十一ドルに跳ね上がった。五倍、六倍になった。日本は九十%外国から油を輸入していた。ほとんどの会社が油なしでは製品を生産できない。大変だということでパニックが起こった。狂乱物価という言葉が出た。その石油パニック、ほとんどの国も日本人自身もこの中東戦争による油の高騰で、一番打撃を受けるのが日本人だと思った。
ところが、今から四、五年前、一バレル当たり百ドルを超えた。これまた混乱が起きると思ったら、ほとんど混乱は起きなかった。それは、40年前の石油危機の教訓を得ていたのです。
なぜ、あの時にパニックが起きてしまったのか。物価上昇率も一年で20%を超えたことがあった。しかし当時は、油は金さえ出せば買える。一バレル二ドルの安さの時代には、石炭を液化しようとか、太陽光や風力や水力をやろうとしても、投資してもそんなに高いのでは採算が取れない。安い油を買った方が安い石油も出来るし、国民も豊かになるということだった。
「これではいけない。いずれ、いま10ドルに跳ね上がったけれども、将来、50ドル、100ドルの時代が来るだろう。これに備えて行こう」ということで、「備蓄していた。省エネ対策も疎かだった。油に代わるエネルギーの開発も怠ってきた」ということで、この三つに真剣に取り組んで来た。
まず備蓄をしよう。急に(価格が)上がっても大丈夫なように。そして、同じ油でも大事に使う。同じ自動車でも一キロでも二キロでも長く走る。そういう省エネ技術を開発し、さらに代替エネルギーも進めないといけないということで、この三つを進めてきた結果、産油国が油を高くすることで自分達を豊かにしようという戦略が、だんだん通じなくなってきた。油が高ければ高いほど、そういう投資が有利になってくる。省エネ技術も、代わりのエネルギーも投資しやすくなる。油が上がったら省エネ技術や代替エネルギーは開発されてくるというのが分かってきたから、産油国も油を上げられなくなってきた。
産油国からしてみれば、「油を持っている国が貧しくて、油を使っている国がどうして繁栄するのか」ということで、そういう政策(価格上昇政策を取ってきたのですが、日本はピンチをチャンスに変えた。だから環境先進国になったのだと思いますよ。省エネ技術が発達してきたから、日本の自動車は環境にいい、長く走る、故障が起きたらすぐに修理してくれる。故障もなかなかしないということで、気が付いたら日本は環境先進国、省エネ技術などの素晴らしい技術を持っている国になった。ピンチをチャンスにしたのです。
戦争、あの悲惨な敗戦、三百万の国民の命を失っても屈しなかった。会津の人達も戊申戦争だけではない。第二次世界大戦でも挫けなかった。そして今、震災にも挫けずに立ち上がろうとしている。ピンチをチャンスにしようとする。
そして、五年間、実質的に原発ゼロでやってきた。「やれば、出来るは魔法の言葉」という高校野球の歌がある。まさに原発ゼロは、やれば出来る夢の事業です。しかも、それを実現すれば、日本は自然に恵まれている。太陽光にしても風力にしても地熱にしても、ドイツがやろうとしている。ドイツはあの福島の事故以来、原発ゼロを宣言しましたが、まだ何基か動いている。日本は原発ゼロを宣言していない。宣言していないけれども実質(原発)ゼロをやってきている。まさに「やれば、出来る」のです。それに自然エネルギーの開発も、支援を邪魔するような、原発を維持する。(以前は)原発は手段だったのです。停電がないように、電力を安定的に供給するように原発が必要だった。原発による電気を国民に安定的に供給すれば、経済は発展する。国民は豊かになる。その原発産業は国民生活を豊かにするための手段だった。
それが今、目的に変わってしまった。どんな金を使っても原発を維持する。原発は維持する。改悪ですよ。金がかかってもやろうとしている。コストが安いからやろうというのではない。これは今でも、原発に振り向けていた金を、自然エネルギーに回せば、5%や10%ではすみませんよ。ドイツにしても北欧にしても、自然エネルギーで3割を超えている国がありますから、私は原発ゼロを宣言すれば、何百年も経たずして何十年かで、今までの原発の依存度「30%」は、原発に代わって自然エネルギーで十分にやっていける。そうすれば、将来、どんどんどんどん増やしていけば、自然エネルギーが原発以上のエネルギー源になって、国民の間に利用されていく時代が来るというのは、夢の事業ではない。幻想でもない。現実的な大事な事業であり、これこそ日本が世界からお手本になる。
自然を破壊する産業ではない。自然を上手く活用して、自然環境を大事にしながら、国民生活を豊かにする国として発展できる、そのチャンスが来たと捉えて、この大震災を乗り越えていかないといけないと思っています。
自然エネルギーの佐藤さんをはじめ皆さんがそういう気持ちで、「福島は原発ゼロでやっていこう」ということで立ち向かおうとしている。福島だけではない。日本全土でやっていける。そういう国にして発展させる責務があると思って、今日もやって参りました。皆さん、実践は強いのです。(拍手)実行している。どうか、この厳しい時代、先人の努力を学びながら、さらに、これから夢のある自然界に無限にあるエネルギーを我々の生活に活かしていく。自然を大事にしよう。そういう素晴らしい事業に今後も皆様と共に努力をしていきたいと思います。時間が来ました。ご清聴、ありがとうございます。 |