徳島に日本の起点を訪ねる旅

 

 古文の世界で「祭り」と言えば「葵祭」を指すが、「葵祭」はこの地で誕生しており、営々と今も引き継がれている、と聴いた。

 このところ無知を恥じることしきりだが、このたびもそれが何とも楽しかった。昨年の淡路島出張時に、この一帯が「国生み神話」の舞台であることを体感した。その後、ある幸運のおかげで、その本拠地は阿波の国であったようだと知るに至った。

 おかげで、まず、稀有な研究者・林博章さんの存在を知り、その著作、『日本の建国と阿波忌部』の勉強から手を付けた。さらに、昨年の秋から『剣山系の世界的農業文化遺産』を学び始め、いやがうえでも「行きたい」との心境となり、2泊3日の旅になった。とはいえ、「国生み神話」の本拠地を体感するのが本来の目的ではなかった。心にもっと大事な狙いを秘めて出かけており、それがほぼかなえられたような印象を抱いてアイトワに戻っている。

 剣山山麓の農業、世界最大と言われる急こう配地での農業に私は何年か前から興味を抱いてきた。その後、津の吉の吉田さんの案内で心療内科医の明石麻里さんと知り合うところとなり、阿波忌部の存在や林博章さんの著作を教わった。

 それが、剣山山麓の急傾斜地での農業と阿波忌部をつなげた。阿波忌部の末裔が、剣山山麓の急傾斜地に散在して集落を形成し、営々と農業を主とする生活を成り立たせてきたようだ、と知った。「なんとしても出掛けたい」となった。

 実は、私の母は徳島の阿波の一角、撫養(むや)の出身だが、それも幸いした。また、その旧姓の谷はそのあたりではすぐにその素性も分かるようで、それもありがたかった。林博章さん始め初対面の人たちとすぐに旧知の仲のような気分になれた。

 訪問当日、昼過ぎに指定された鳴門の一角で林博章さんや農協研究者である野口先生と落ち合い、夕刻の交流会まで一帯を車で巡り、地勢などを伺った。徳島は鳴門の豊かな海産物だけでなく、雨量に恵まれた扇状地で、スダチやサツマイモ(鳴門金時)はもとより、レンコンやナシなどの名産地でもあった。また、豊かな地勢は進取の気概を育み、共同体意識に富んだ気風も育てたようだ。JAや生協の発祥地とも聞いた。

 竹の活かし方も追及する町の研究者を紹介され、とりわけタケパウダーに感心した。その有機肥料化した製品、燻蒸後に蒸留したエキスの有効性を体感したくて、少し譲ってもらった。アイトワが提唱する「バイオロジカルエコロジー」生活にとって、タケは不可欠だが、これでその必要性が格段に増すのではないか、と思われた。

 夕刻からの交流会に、そうした気風や気概に満ちた人たちが20人も集い、まず林博章さんの研究成果とその展開する運動の何たるかを伺った。次いで、私のスピーチの時間が用意されていた。そこで「第4時代論」を展開し、50年余にわたる動きを紹介した。

 これほどすんなりとこの論に共鳴する人たちと巡り合えたことは滅多にない。ひょっとしたら始めてかもしれない。林博章さんは「生命文明の世紀論」を展開しているが、「第4時代論」と想いは同じかもしれない。もしそうだとすると、とてもありがたい。また、この集いで明石麻里さんの想いも聴けたが、おかげで「どうして心療内科医が」と思っていた不思議の気持ちがうっすらだが晴れた。

 夜、小さな酒宴を持ったが、実に愉快だった。

 翌日、林、野口両氏の案内で、飛び入りの建築家夫妻も含めた面々で、3台の車に分乗して剣山山麓の傾斜地を駆けてめぐり、急こう配地で繰り広げられる農業「ソラ世界」の5集落を見学した。「馬内・平野」に始まり、「西山」「西谷」「淵名」そして「中野宮」の順であった。その詳細は『剣山系の世界的農業文化遺産』に詳しいので割愛する。

 まず「馬内・平野」。「これが」神木であったのか、と思った。その前に神々が祭られていた。その周辺の傾斜地では等高線状に畝がしつらえられ、畝間に刈り取ったススキが、さまざまな効能を期待されて厚く敷かれていた。また、ひときわ急な坂地には甘夏ミカンの木が植えられており、根元には落ち葉が分厚く敷かれていた。これは、アイトワでも体験的に試みて来た方式であり、その効能の数々は即座に理解できた。

 

『日本の建国と阿波忌部』の勉強から手を付けた

『剣山系の世界的農業文化遺産』を学び始め

レンコン

これほどすんなりとこの論に
共鳴する人たちと巡り合えたことは滅多にない

飛び入りの建築家夫妻も含めた面々

神々が祭られていた

等高線状に畝がしつらえられ

ススキが、さまざまな効能を期待され、厚く敷かれていた

根元には落ち葉が分厚く敷かれていた

 「西谷」では種苗会社の依嘱に基づき種を売るための野菜が栽培されていた。忌部の人たちの歴史は、種を日本中に配った歩き、栽培法を教え、広めてきた一面もある。その伝統が引き継がれているのでは、と思われた。畑に目を移すと、オス菜とメス菜が交互に植えられていた。播種時期を2〜3日ずらした同じ種の野菜と思われたが、種はオスメス別に採取し、種苗会社に納入するとのことで、とても印象く聴いた。そこから見渡す景観も見事であった。多くの集落が、谷向こうの山々に点在している

 「淵名」では種を採採取するニラが栽培されていた。刈り取ったあとの株にはまだ新芽は出ていなかった。温暖地の四国だが、標高数100mと思われる畑なのでアイトワより春の訪れは遅いのだろう。わが家ではすでに新芽を出している。

 次の集落に向かう道中で、四国八十八カ所巡りの1番札所を訪れた。同道の建築家新居さんのおかげで、柱だけで重い屋根を支えているといってよい構造と、15番札所では、その技のほどにも気付かされた。かすがいがない。四方八方(一部、祭壇部分を除く)から、数百名の村人が舞台で演じられる芸を眺めたのだろう。盆踊りで用いられる舞台が置いてあった。

 「中野宮」の集落にたどり着き、車道からその急こう配の畑を見あげた時は、なぜか笑いが込み上げてきた。80代の老人も畑仕事に携わっていると聞かされ、笑いが止らなかった。それはどうしてか、と考えたが、すぐにそのわけが 分かった。

 内外のさまざまな農業をながめてきた私だが、今までに「ここではやってゆけそうにない」などとしり込みをしたおぼえはない。だが、この傾斜地は別であった。たちまちにしてころげ落ちているわが姿を連想していた。それが、笑いを生じさせていた。車道から下方も眺めたが、急こう配地での畑が広がっており、今度は顔をひきつらせた。

 帰路、第4時代論を振り返り、ふつふつとした力と勇気がココロとカラダにみなぎってくることを実感し、愉しんだ。太陽の恵みの範囲で「古人の知恵」と「近代科学の成果」を掛け合わせ、新時代を切り開きたい、と想いを固く結晶化させずにはおれなかった。林博章さんの「生命文明の世紀論」の「生命文明」は、私の思う「バイオロジカルエコロジー」と 一脈通じているに違いない、と思った。

 

オス菜とメス菜が交互に植えられていた

集落が、谷向こうの山々に点在している

 

1番札所を訪れた

15番札所では、その技のほどにも気付かされた

急こう配の畑を見あげた

 

急こう配地での畑が広がっていた