嘆かわしい気分
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「戦争法の廃止を求める統一署名」という運動があった。衆参議長と首相にあてた署名活動だ。遅ればせながら、私も一口載った。いわゆる「戦争法」を、いったん白紙撤回し、国民を守る唯一の法律である「憲法」を正常化しないといけない、との想い
に乗せられ。つまり、権力者の暴走を縛る唯一の法律である「憲法」を、「骨抜きにされた状態」から正常な状態に戻さなければいけない。そう考えて乗ったわけだが、いろいろと勉強になった。 驚いたことに、署名には応じられない、という人がいた。その理由として、北朝鮮や中国の不気味な動きを指摘する人がいた。「ハメラレている」と思った。 私のススメたことだから応じられない、なら分かる。あるいは、署名を求めた場所柄などが気に入らない、求め方が気に入らない、ならまだ分かる。だが、私が一口載った理由とまったく逆の理由で応じられない、というのだから。「セラヴィ」とシャレたくなった。 この問題は、国民の最大の権利が脅かされかねなくなっている問題、との認識がない。憲法とは何か、との認識が欠如している。「国民にとって最大最高のよすが」が、ご都合主義によって、メチャクチャにされかねなくなっているとの危機意識に欠けている。 私は決して一度決めた「憲法」は「なにがなんでも守れ」とか「変えてはならない」なんて考え方は決して持っていない。むしろ、抜本的に変えなければならない時に至っている、とさえ思っている。だけど、どのように変えるべきか、と言えば、この「戦争法」とはまったく逆の方向で変えなければならない、と思っている。これから立ち向かうべき新しい時代を見据え、率先して変えたいものだ。なんとしても戦争に組みしてはいけない。それだけに議論を十分にして、国民主体で考えて、変えなければいけない。 なにせ憲法は「国民が権力をゆだねざるをえない人たちの勝手気ままを許さないために手に入れている最大最高のよすが」なのだから。 唐突な事例を引くが、私は、短大時代はもとより若者には、憲法を抜本的に変えなければならない時が近づいている、ということを示唆する例え話をよくしてきた。いわば「ナゾ」をかけて来た。決して、自分の意見を押し付けたくはない。だからと言って、何も いえずには済まされない気分になり、「ナゾかけ」をしてきた。各人が「自分の頭で考えるように」と願った例え話を重ねてきた。 「ダイアナ妃の事故死」の時や「雪印の賞味期限切れ製品流用」が騒がれたりした時のことを思い出す。 「ダイアナ妃の事故死」の時は、今は大騒ぎをしているけれど、キミたちの子どもたちが、キミたちの年頃になるころは、どうなっているだろうか」と問いかけたナゾかけだ。私は「ダイアナ妃は次第に忘れ去られる」だけでなく、「ダイアナ妃のありようは人気がなくなる」「否定する意見が台頭する」とさえ思っている、と意見を述べた。今のキミたちの意見は「私のこの意見とは逆だろうが、それを否定するつもりは毛頭ない。だが、この私の意見も覚えておいてほしい」と。 「雪印の賞味期限切れ製品流用」が騒がれ、雪印牛乳が市場から消えかねなくなっていた時も話題にした。やがて、「賞味期限が切れただけで、まだ食べられる食品を捨てたりすれば、それがとがめられる時代になっているだろう」と。 つまり、「時代は変わる」ということを認識し、それを一早く予見しようとするココロを養ってほしい、と願っていた。 言葉にはしなかったが、「文明が支配した今の時代から、文化が支配する次の時代に転換せざるを得なくなるはず」、と私は考えていた。今はそれが、確信になっている。 余談だが、問題は「文化」と「文化の産物」を混同してはいけない、と言うことだ。それを混同している人が多々見受けられるが、そして、そうした人たちは「文明の産物である芸術」まで、「文化」と見なす傾向にあり、誤解する人を生み出している。要注意だ。 話しを「セラヴィ」のところまで戻す。例えば「9条」。私はこの「9条」を含む現憲法が発布された頃のことを覚えている。多くの人はこの「9条」に注目して「新時代がめぐって来た」と喜んだり、「日本は生まれ変わった」と安堵したりしていた。市井のすべての人が「戦争はもうコリゴリ」と思っていた。「いかなる理由があろうとも、戦争だけはしてはイケナイ」と心に決めていた。 だからと言って「何が何でも憲法を変えてはならない」と言うつもりはない。変えるなら変えるで、やり方がある、と言いたい。今の「半殺しにされたような9条」などは、遡上に上げ、特にしっかり討議しないといけない。 それよりも何よりも、「憲法」を変える前に、憲法に反する法律を作らせてはならない、とまず言いたい。いわんや、「憲法」を変える前に、間違っても憲法に反する法律を作らせ、その後で、憲法に反して作らせた法律を、後追いで正当化するために「改憲させる」なんてことはトンデモナイことだ、と言いたい。「それをシチャお終いよ」と言いたい。 現在は、それをやらせてしまったわけだから、その「最大最高のデタラメ」を断じたい。そのようなことをする国が、そのようなことを許した国民が、信じてもらえるはずがない。武力に勝る国に都合よく扱われがちになり、蔑まれるだけだ。逆に、非力な国には不安を与え、近隣諸国には疑われ、身構えさせかねない。 「戦争法の廃止を求める統一署名」という運動に私が一口載った理由は、ここにある。わが国の憲法に詳しい人の圧倒的多数が「憲法に反する法律」との意見を表明していたにもかかわらず、それを無視してのゴリ押して作った法律を認めておいてはいけない、と思ってのことだ。それは国民にとっての「よすが」を台無しにしようとする大愚行、と思ってのことだ。 にもかかわらず、「北朝鮮や中国の不気味な動きが」などと言ってたじろぎ、この愚行を質そうとする運動に賛同しかねた人がいるのが悔しかった。「ハメラレている」と思った。「セラヴィ」とシャレているわけにはゆかない、と思った。 太平洋戦争も、国民は「ハメラレていた」。勇ましい言葉に乗せられ、「必勝を信じ込まされ」ズルズルと戦争に巻き込まれていた。そして振り返ってみると、ハメタ人たちは今も、ハメラレタ人の税金で、ハメタ行為を褒賞するかのごとき大金を受け取っている。そのことも振り返る必要がある。 |
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