エシカル

 

 5月19日に予定されているスピーチがある。そのパワーポイント資料もこの日の夕刻までにほぼ仕上げた。我が国の企業社会も、いよいよ「エシカル」をテーマに取り上げて、真剣に取り組まなければならなくなったようだ。

 難し時代になったものだ。この時期の畑に立つと、余計にそう思う。冬野菜末期の花盛りの時期であり、冬野菜の種を自給しようと思うとあと2カ月はそっと置いておきたくなる。逆に、夏野菜のことを思えば、その苗の植え付け期であり、早く末期の冬野菜を始末し、夏野菜の苗を植えなければいけない。また、当週は、自生化したケシが咲き始めてもいる。これから背たけを伸ばすケシこそ始末しないと、夏野菜の苗を日陰にしてダメにしてしまう。視点をどこに、何のために置くかで、ココロが揺れる。季節の変わり目は楽しいけれど、大変だ。

 それ以上に大変なのが時代の変わり目だ。現在施行されている法律を、ことごとく改めなければならない時期が迫っているように思われてならない。

 「法律さえ守れば社会的責任をはたしているという倫理観が『公害』を引き起こした」と指摘した人がいたが、けだし名言だろう。やがては、公害はもとより景観破壊や生物多様性に支障が生じかねないような法律体系に留めていると、国家や国民の品性や民度を蔑まれかねなくなるだろう、と心配になる。

 その変わり目を埋めるのがエシカルの問題であり、その確立の下に、新たな法体系への転換が速やかに果たされなければならないのではないか。

 もしそうだとすると、ドイツの「循環経済廃棄物法」や、このたびのフランスの「食料廃棄禁止法」の施行をとても慎重かつ丁寧に取り上げ、その位置付けを分析しておかなければいけないだろう。つまり、工業文明の延命策としての一面もあろうが、わが国は「次代を見据えた法律」と睨み、急いで学び取らないと、決定的な遅れを喫しかねない。

 第3次世界大戦はすでに始まっている。これは武力戦争でも、経済戦争でもない、と思う。まさに企業であれば経営者や従業員の、国家であれば、国のありようや国民の「エシカル」度が問われる戦争である、と思う。