方丈に切り替える好機

 

 熊本を主にする九州の地震は気の毒でならない。田浦にも、天草にも、友人がいる。

 私は、阪神淡路大震災の京都での震度5弱や、311の八重洲口での体験しかない。震度7とか6は想像もつかない。思っただけで身震いする。その恐怖が、そうさせるのだろうが、このたびの政府の対応が、他人ごとのように見えてならない。

 阪神淡路大震災の時にもそう感じたが、この度も、願っていたようには行かなかった。私は、その日のうちにも、被災地の上にはオスプレイが舞い、救援活動に当たっている光景が見られる、と思っていた。その情報にそって、水や医薬品を抱えた落下傘部隊が次々と降下していてほしかった。

 何のために、誰のために、オスプレイを買い求め、配備し、落下傘部隊を抱えているのか。迅速に動くのは、敵が万が一攻めてきたときだけか。あるいは、友軍国が攻められた時(他衛)だけか。もっとも迅速に動くべきは、自力では刃が立たない災難に巻き込まれた国民を、その災難から守るためではないか。それが自衛だろう。

 その災難の中に、万が一であれ、生じかねない外国や集団の意図的な攻撃も含めるのが筋ではないか。それが自衛のあるべき姿ではないか。それは自衛隊の2義的な役目だろう。

 この度の国の対応を見ていたら、天災は、狙いが不特定で、しかも地域が限定されがちだ。だから自衛隊の出動は後回しになる、との意識が働いているように思われてならない。そのありようは、優先順位が間違っているように思う。力の持ち腐れだ。。

 ふと、「地震、雷、火事、親父」という言葉を思い出した。

 まだ私の子どもの頃は生きていた言葉だ。その時代の末期に、今の風潮との端境期に、私は台風に見舞われ、その恐ろしさに震えあがったことを記憶している。ジエーン台風で、あった。夏休みの課題だけでなく、家屋自体が大きな被害をこうむった。だが、父は平然としているように見えた。あきらめていたのかもしれない。

 たたみが床ごとフワフワと浮いた。その畳に、父は寝転び、天井を見上げていた。きっと「これ以上、被害が広がったら」と、考えていたに違いない。それはともかく、父の姿が、小学生の私には、なぜか頼もし気に映った。

 「地震、雷、火事、親父」が生きていた。その風が収まった時に、最初に手を差し伸べてもらえたのは、幼友達の多美ちゃんの母親が届けてくれたロ-ルパンだった。ついで、顔見知りの農家に、「コレッ」と差し出してもらえた、強風で根元から折れた1本の伏見トウガラシだった。これらに勇気づけられ、家族で周辺の補修にかかった。

 誰しもが、そうした生き方をしていた。もちろん、自衛隊などなかった。そのころに、幼心を固めたものだから、私は楽天的になれたのかもしれない。

 私は、楽天的に生きたい、といつしか願うようになっている。そのコツは「山より大きなシシはいない」とまず考えることではないか、と思っている。そして、究極の巨大なシシを想像し、出くわせば「待っていました」と言えるように心構える。出くわせなかったら「ラッキー」であった、と考えることにしている。

 さて、生きている間に、「地震、雷、火事、親父」の「親父」より、16倍か、256倍ほど怖い大地震に見舞われるかもしれない。その時は、と考えて。

 「方丈の庵」で生きよう。妻もきっと「ガラス磨きが楽になる」と言って喜ぶに違いない、とフト思った。