野菜の苗は、「3本や5本なら、買った方が、手間暇を考えると割安だ」と「つい、横着をして」買い求めがちだ。「育て方を忘れた」「第一、面倒だ」と、「苗は買うモノ」とのクセを身に着けがちだ。だが、その苗が90円ぐらいで買えると思っていたのに、200円とか250円と、このところ2〜3倍に値上がりした。
ならば種を「買い求めて」と思っても、近ごろは「F-1」の苗が増えた。一代交配だから、その種で育てた野菜から種を自家採取しても、同じ野菜は育たない。だから、その種を一旦買い求めはじめたら、いつまでも買い求めざるを得ない。
ならば、「元の種に」と思っても、元の種は売っていない。たとえば、ミズナやミブナ。9月ごろに苗床に種をま木、苗を育てて本植えし、大きな株に育てて霜に当て、収穫していたタイプだ。ハリハリ鍋や、浅漬けなどにして食した。いまや種を畝に直に厚まきし、ちょっと大きめの苗のごとき状態で収穫し、サラダ菜のごとくになっている。しかも、ハウス栽培の、年間商品になった。かつては路地栽培の年に1回だった。
農家は、F−1の種を用いるだけでなく、育て方も、つまり農薬や化学肥料の用い方なども指示通りに行うようになっている。そうすれば、毎年うまく行く。そのやり方に慣れるにしたがって、種はもとより、農薬や化学肥料も、指図通りに買い求めざるを得なくなる。でもそれが、安定した収穫を期待できるから、離れ難くなる。そうなってから、種はもとより、農薬や化学肥料もドンドン値上がりする。しかも、消費税もドンドン上がる。でも、それはまだよし、としたい。もっと気を付けないといけないことがある。
近ごろは、産地指定とか、レタス栽培農家などといって、専門化が進んでいる。まるで、農家が、計画生産に従事する工場労働者のごときなっている。しかも、育て方がワンパターンで、そのノウハウは農家には集積されない。次々と、改良種という名のもとに、新たなF-iタイプの種と、その育て方が指導される。
農家の存在意義は何処にあるのか。どのような位置づけになるのか。
農業の工業化が進み、農民が工場労働者のような存在になるに従って、その意識が賃金労働者のようになっている。コメ農家に、「どうしてさまざまな野菜をつくり、鶏なども飼わないのですか」。そうすることによって「自給率を上げるのが、本来の農家の姿だったでしょう」と尋ねても、返ってくる応えは「それではソロバンに合わない」がおちだ。
こうした傾向が進むに従って、アメリカでは貧富格差の拡大が加速されていた。アメリカは広大な土地がある。だから、日本とは同じ土俵ではない。土俵が違うのに、同じやり方をしていてもよいのだろうか。ボツボツわが国でも、いわば陰謀のごときカラクリに注目し、国土と国民性にあった生き方を確立することが求められている。要は日本と日本人の望ましき存在意義の確立が求められ始めている。
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