畑の野菜だけでなく、日本人を筆頭に、人類も端境期に立たされているようだ、と思わせられることが多々あった
まず、「人体は微生物の集合体」だ、と教える番組。次いで、大量難民に備えてか、デンマークで生じつつある政治情勢。そして「トランプ(大統領選)候補の実体」を紹介した番組に、「ウーん、ナルホド」と、うならされた。
新聞報道では「三菱自動車の不正重ねた25年。自浄作用が働かず」と「ホロコーストの実態」を紹介した著者インタビューに「やはり」と思わせられ、奇妙な心境にされた。
かねがね私は「人体は微生物の集合体」と考えて来たし、そう実感もしてきた。だから、本当に望ましい水とは、あるいは空気とは、と問いかけて来た。
その答えは、人間がその昔から馴染んできた水や空気だと思う。これから「人体は微生物の集合体であり、1つの生態系のごとし」との事実が飛躍的に明らかになるであろう。だが、現実は、まだ逆行している。とりわけ日本では、グッズの氾濫や、かつては地球上に存在しなかった化学物質であふれかえっている。
目には見えないダイオキシンや放射能より、回虫やウジムシを避けたがる傾向にある。放射能や化学物質を含んだ水や空気をあまり恐れず、もとより食品添加物や農薬散布に寛大な傾向にある。だがきっと、中央官庁は、満州での関東軍よろしく、ボツボツその移転を真剣に考えて、具体化する時期だろう。そのためにも、政府機関には機密保持を許す法律が必要になった、と考えればよいのかもしれない。
それはともかく、人体は「微生物の集合体」と認識して、その育成に努めるだけでなく、森林浴はもとより、蜂に刺されたり、竈の煙を吸ったり、あるいは森の生水を飲んだりすることがとても大切なことだ、と思われる。そう遠くない時期に、そうしておいてヨカッタと思える時が巡ってくるに違いない。
抗菌グッズと公害(放射能がおのところは怖い)の普及や拡大は(凹凸の関係、攻守の関係、あるいは正邪の関係などに見えそうだが)一蓮托生だと私は思っている。その裏に、誤解だけでなく、様々や企みや陰謀が控えており、一蓮托生に思われる。こんなことまで、この番組を見ていた夢想してしまった。
つぎに、人道とは何か、が近く問い直されるに違いない、との想いを再燃させられた。今世紀は「人間の定義」が1つの大テーマになる、と私は見ているが、その人間の「道」が。問われかね時期が近づいているように湯に思われtならない。
その想いを彷彿とさせる出来事が1つ、デンマークで生じた。
デンマークの一部では、幼い子供の養育施設などで、給食に豚肉のミートボールを義務付けるような動きが具体化していた。そうと知って、「ウーん」と、うならされた。
私は一時期、北欧が好きな時期があり、デンマークにも足しげく通ったこともあ?。それだけに、デンマークは実に「ケチ」な手段に出たものだ、と寂しかった。
だが、すぐに、「そこまで追い詰められているのか」との同情心も湧いてきた。なぜなら「ナルホド」と、思い出したことがあったからだ。
3年昔ほど前の話だ。コペンハーゲンのレストランで、案内してもらった企業経営者が「嬉しいナ、今日はバターが食べられる」と喜んだことがあった。バターはデンマークの主要な輸出産品であるがゆえに、国民は(外国人とのレストランなどでの会食を除き)食べられず、マーガリンを当てていた。農産国であり、GDPでは世界屈指の豊かな国の、それが考え方だった。それだけに、文化の面でも実に調和や協調を大切にする意識に溢れていた。ほのぼのとした気持ちにされたものだ。そうした文化を尊重し、いわば「郷に入って郷に従え」に沿うと、実に心地よく滞在できた。難民の受け入れも寛大で、「郷に入って郷に従え」に沿うと、実に心地よく生活できていたはずだ。
「そもそも」と、私は考え直した。こうしたことが生じるのは目に見えていた。「案の定」と思わせられた。なぜなら、私は敬虔なるヒンズー教徒やイスラム教徒には敬意を表しているからだ。ウシを神の使いと見てだろうが、牛を食べないヒンズー教徒。ブタを蔑んでだろうが、ブタをたべないイスラム教徒。
対して、旨ければ何でも食べる人がいる。私もその一人だ。しかも、ヘレとかタンなど、その一部に嗜好を偏らせる人も、いる。私もそれに近い。霜降りやマグロのトロは、一切食べない。そうした人の中には、魚を丸ごと見ても種類を言えないが、刺身になれば「全部当てられる」。私は違う。さらには、「ウシやブタを殺すのは残酷で野蛮と思うが、限られた部位ならしばしば食べたい」という人までいる。この考えには私は同意できない。
だから、「案の定」と思った。
世の中には、数の暴力、という事実がある。集団心理という現象もある。加えて、民主主義には大いなる欠陥もある。そもそも、工業文明は制度疲労を起こしている。非・工業文明国から見れば、究極のエゴイズムに見えかねないことが多々生じている。
拙著『次の生き方』を記した頃は、地球上に占める人口の2割に過ぎない工業文明国の人口が、地球で毎年産出される食料の5割を消費していた。恐らく今では、工業文明の恩恵にあずかる人口は、3割を超えたであろう。残る7割の人に、どれだけの食料が回っているのか。「案の定」だ。2025年を待たずに、日本のほころびが露わになるのではないか。
それにしても、先週触れたフランスの「食料廃止禁止法」はスゴイ。わが国こそが、先鞭をつけるべきことであった。つけずに、太平洋戦争前夜のような状況に国民を陥らせるようなことが多々生じている。報道管制は目に余る。
「トランプ(大統領選)候補の実体」を紹介した番組は、イギリスのBBCの製作だが、いわゆるアメリカの心ある人へのイギリスの応援歌だろう、と思ったほどだ。トランプに熱狂する人たちは、白人の低所得者階層の人たちが多いようだが、私の目にその様子はまるで先日「新映像の世紀」で見たヒトラーに熱狂する人たちのごとく写った。
かつては「世界の警察官」であるかのごとくにふるまったが、そのゆとりはまったく見られない。前大統領選ではオバマへ候補に熱狂したが、その対極にある、と見る。「アメリカの恥だ」と叫ぶ人がいたが、同情した。
「怖いものだ」と思った。「自浄作用が働かずに不正を重ねた三菱自動車の25年」のことだ。その間に、様々な悪事が発覚し、反省の弁や、再発防止の弁などを公表していたが、ばれていない分はひた隠しにしていたわけだ。この度もグループ力で守るのか否か。真のグループ力を発揮して、解体させてほしい。そして、カヤの外に置かれて勤労させられていた多くの従業員を、グループ力を発揮して生かし、救ってほしい。
なぜか、太平洋戦争を思い出し、無理だろうな、と思った。
太平洋戦争では、財閥のエゴが大いにかかわっていた。その当時の財閥の意識にしろ、トランプなどの意識は、足を洗って出直すことがそれほど難しいものであろう、との疑いだった。3月17日に見られたその予兆の1つも思い出した。
関電の会長や阪急電鉄の会長は、高浜原発3,4号機の運転を差し止めた判事を非難したことだ。「なぜ一地裁の裁判官によって、国のエネルギー政策に支障をきたすことが起こるのか」「こういうことが出来ないよう、速やかに法改正を望む」と述べた。
「それを言うなら」と私は残念に思ったことがある。
それはこうだ。消費者の電力購入システムが変わった今日が、その好機だ。外国に見られるように、「原発電力ないしは自然エネルギー電力などと、電源を峻別し、価格も個別に設定し、消費者に自由に選べるように法制定してほし」と、なぜ言えないのか、と言いたい。民意を信じ、尊重すればどうか。
あるいは、経済団体の力を上手く活かし、報道の自由を阻害しがちなNHK会長を非難するなどして、消費者の民度をまず高め、その選択と決断にゆだねる国にしようとしないのか。それがこれからの国家繁栄の決め手になる。それが、企業の存在意義を高める決め手である、となぜ考えないのか、ティモシー・スナイダー歯がゆい思いがした。
それだけに、「ホロコーストの実態」を紹介したアメリカ人学者・ティモシー・スナイダーの、日本人への忠告(と読み取れる下り)に、とても感銘を覚えた。きっとこの人は、731部隊や南京虐殺の実体、あるいは従軍慰安婦問題の真実などについても、大いなる関心を寄せているに違いない。
決して、ドイツ人や日本人をあしざまに見ているのではない。むしろ逆だろう。人間の弱さの克服に役立ちたいに違いない。弱さとは、身勝手がなせる悲しい事実のことだ。正しい情報、あるいは事実への拒否観念ではないか。
「私たち個人がなすべきことは、自らの歴史の暗部をしっかり見つめることです。それは『日本は正しい』『米国は悪い』などという評価とは次元が違う話です。自分の国が他の国の人々に何をしたのか、世論捜査を受けないためにも、私たち一人ひとりがじっくり考えるべきでしょう」との発言からも、そうと汲み取った。
三菱自動車はどうなるのか。敗戦後の日本のごときにならないか、と心配だ。加害にホウカンムリし続けて来た。その一端に、国民への戦争責任の果たし方もある。
日本は、太平洋戦争に敗れた結果、軍を解体した。だが、職業軍人から優先権を与え、手厚い褒賞金を(敗戦後の国民から徴収した税金で)支払う法律を、敗戦後にこしらえた。だが、地上戦であれほどの辛苦を舐めさせた沖縄の被害者をはじめ、真の被害者には、明治憲法を引用し、保証を拒否し続けている。
満州から先に逃げた関東軍は恩賞を受けているが、取り残した移民は「棄民」にしようとしていた。100歩譲っても、片手落ちだ。
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