大きな穴(元は直径1.3mほど×背丈ほど)に過ぎないのだが、放り込むモノを厳密に選ばなければならないこともあり、堅苦しい名称を採用した。哲学(フィロソフィー)とは「智を愛する」が原義だから、放り込むモノが(人間の都合ではなく)植物の都合優先だから「智を愛する」姿勢で臨みたく思ったからだ。
当初は植物にとって真の「愛とは何か」と考えて「アイトワの穴」としかけたが、考え直し、真の哲学を身近なものにしたくて「哲学の穴」にした。つまり、難しいこと(先人の哲学)を突き詰める哲学ではなく、自らの頭にあった範囲で思案を重ね、自分らしい想いを築き上げる努力を愛したかった。自分なりに智を愛する機会の1つにしたかった。
この穴は、植物が喜ぶように、いずれは有機物やミネラル分に富み、水はけのよい土で満ちてほしい。だからといって、それを目的にして放り込むモノを選んだのでは哲学にならないように思わる。生きるために食べるのではなく、食べるために生きるようなことになってしまいかねない。
出来ることなら、有機物にする分は、この庭の他所では処分しにくい厄介者の有機物を放り込み、自然の力で植物がよろこぶ土にさせたい。だから、その大部分は種を結ばせてしまった野草やシダ類、あるいは貝殻なら、砕きにくいホ
タテなどになる。時には、ストーブの燃料にもならないような木の根なども放り込む。
他に、割れた植木鉢や瓦などをさらに砕いてとか、鉄クズ、時には使い古した天ぷら油も放り込む。間違ってもプラスチックや化学物質は液体であれ粉状であれ放り込まない。穴がほぼ一杯になれば、次の新しい穴を掘り、その土で古い穴の空いた部分を埋める。こうして、50年にして、今は3つ目の穴だが、これで私の生涯は持ちそうだ。
アイトワの「ゴミ」処理機は他に、堆肥の山、腐葉土小屋、石組の囲炉裏、無煙炭化器、あるいは屎尿タンクもある。そしてこれらは、わが家の銀行であった、多くの人が「ゴミ」のごとく扱うものを、わが家の最大の定期預金にしてきた。
その上に、近年では胸を張りやすくなった。アイトワでは「塵を出さない」と言い切ってくださる方がいらっしゃるが、それで「間違いなかろう」と言えそうに思われるようになったからだ。幸いにして、この穴に放り込めないモノが、ほぼすべて(紙、ガラス、プラスチックなどに始まる人工物)が資源ゴミとして回収されるようになったからだ。
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