言葉や文字だけで迫るのでは不十分

 

 なにせ59年前のことだ。弱気で、神経が過敏になっていた私は、その夜「源ちゃん」と呼んだ知的障碍者のつぶやきに接しており、このたった一言で私は世の中の何もかもに気付かされたような気分にされた。

 そのつぶやきは、5歳の時の体験と化学反応のごとき作用に結び付き、今日の庭づくりに至っている。それはひとえに、今にして思えば、19歳にしてまだテレビに感化されていなかったことが大いに関係していたように思う。

 5歳の時に、私は母に手を引かれ、爆撃後の生家を見に西宮に行った。そこで、さまざまな悲惨なものを見た。母は静止したが、大勢の大人がのぞき込んでいたので、つられて、屋根が崩れ落ちた小さなビルの中も覗き込んだ。そして見てしまった。

 だが、その日は、もっとココロに残ったものがある。それは、顔見知りに語り聴かされた友だちやその母親の消息だった。目で見るよりはるかに大きな衝撃を受けた。ほんの1年ほど前まで一緒に遊んでいた友だち、幾人かの餓死を知った。その1人の母親は、子どもたちに恨まれながら先に死んだ、とも知った。

 母に教えられたところによると、栄養失調が極度に進むとブヨブヨと水ぶくれ状態になるようだ。それを、子どもたちは「太っている」と恨んだという。

 日本は何せ、皆が必勝を信じていた、だから、どんどん悲惨になるのに、どんどん激烈になる強制に人はだくだくとしてついていっていた。軍人の命令一下、文句など言う人はいなかった。何せ、お上の公式発表しか報道されない時代だった。皆も、その報道を信じたかったのだろう。必死の形相でラジオに耳を傾け、軍艦マーチと共に報道される華々しい戦果に留飲を下げていた。母も、その1人であった。

 だが、子どもの目には、皆がキョロキョロと周辺に気を使いながら、ビクビク、オドオドしながら、口では勇ましいことを叫び、強いものに追随しているように見えた。私も、忠魂碑などの前では深々と頭を下げた。

 それが、夏休みの間に一変した。それまでは勇ましいこと叫び、周りの人にけしかけていた人が、特に態度を一転させた。それを責任転嫁という、と後年になって知った。その張本人はA級戦犯だろう。ついに、誰一人として、開戦を命じたことを認めずに死んだことが分かっている。

 その14年後、時代は各段に進んだ。だがわが家にはまだテレビはなかった。テレビのある家庭は限られていた。テレビを持っている家庭は、高々とアンテナを掲げていた時代だ。案外それは、弱電会社が仕組んだ販売促進策の一環であったのかもしれない。高々とアンテナが揚がっている家が輝いているかのように見えた。

 ほどなく学生運動が盛んとなり、私と同年か数年年上までの先輩たちが過激なまでの運動を繰り広げはじめた。やがてマクルーハンだったかの指摘で「ラジオはホットなメディア。テレビはクールのメディア」に触れた。私は当初、「?!?」と思ったが、すぐに5歳の西宮での見聞を振り返り、「なるほど」と得心した。

 なぜか、このような思いを錯綜させながら、このたびの冊子作りに携わり、そのエネルギーを切らさないようにしてきた。それはおそらく、昨今のわが国の空気が、5歳の頃に感じていたあの重苦しい空気にとても似てきたからだと思う。あるいは、アメリカでのトランプ現象に、あきれ果ててのことだと思う。