独身寮で過ごした4年あまり、毎夜のように一緒に風呂を使った仲だ。「そろい踏み」などと称し、大風呂で賑やかに振る舞い、一緒に入っていた大勢の仲間に随分迷惑をかけたことだろう。
私は親友にかこつけて、妻に草餅を用意してもらってよかった。妻は「お二人のために」と草餅を主にこしらえ、私は1臼余分に着くように頼み、それは手のかからない「伸し餅」で了解した。実はそれが狙いだった。
2人には草餅のデザートにとても喜んでもらえた。昼食の歓談時に、友人の一人が「父が積んだヨモギで」と、草餅を懐かしがっていたからだ。
この2人には、他にも感慨深く振り返る思い出が多い。「野球と言えば、土橋」と皆が認めるほど、小柄ながらの名選手であったが、この人のおかげで「地中海クラブ」のプロジェクトにも関われたし、瀬島龍三の一端にも触れた。
フランスが発祥地のレジャー施設だが、1週間単位でしか利用出来ない施設だった。入村すると、情報とお金とは一切縁が切れた。衣食住はもとより、さまざまな余暇の過ごし方が用意されていた。だが、ラジオ、TV、電話、あるいは新聞など、一切なし。賭け事がしたい人は、その許容額を前もって申請し、貝殻に代えて入村するなど。
ある時、瀬島隆三の発案で、新事業開発プロジェクトチーム編成の社内公募があったが、それに土橋さんは応募し、1員となった。その後の経過も逐一聞かされていた私は「さずが、フランス」と感激したものだ。何と、フランスは、余暇時間という1つの総合的な生活空間を、4次元的に取り扱うビジネスを発案し、実施に移していたわけだ。
瀬島龍三にも「さすがわ」と思わせられた。さまざまな新規提案をことごとく却下したようだが、初めてこのフランスの「地中海クラブ」プロジェクトを採用した、と聴かされたからだ。
このプロジェクトが始まり、私はそのアドバイザー的な立場で参画機会に恵まれた。シンボルマークなどの日本人向けアレンジなどから手を付けたが、問題は、当時の日本のサラリーマンは、1週間単位の休暇など、病気か新婚旅行以外ではまず取れない時代であったことだ。そこで私は「さずがわ、瀬島龍三」に、ある直訴をした。
「伊藤忠が先鞭を切って、社員が1週間単位の休暇を取れるようにしましょう」が提案だった。「バカモノ」が瀬島龍三の応えだった。他の商社に「1週間単位の休暇」をその社員にとらせるようになることは歓迎、でも「自社員が」トンデモナイ、との権幕だった。不遜な言い分だが、「ちょっと次元が」と思わせられたし、かつて赤紙1枚で集められた「日本の、招集兵」が余計に気の毒に思われ始めたものだ。
土橋さんはこのたび、社員研修時代の思い出も振り返った。会社にぶつけた私の質問を覚えていた。270名ほどの男子社員は一堂に集められ、社員研修を受けたが、その過程で、私が発した質問だった。
この日の2人は京大の出身で、応募枠を与えられていた社員だが、私はその外れのようなものだった。たまたま、求人対象にされていたので、応募した。結局これが、生涯で最初で最後の自主応募になったわけdが、それだけに、気になっていたことがある。
「私は、工業デザインを学んできたが、この会社では役立てられるのか」と質問したが、これを土橋さんは覚えていた。そして、感慨深げにされた。
大柄の高橋さんとは、なぜかウマが合った。この日も「里帰りしたような気分だ」と、2度もつぶやいていた。わが家に一番多く訪ねてもらった同期生の2人の1人だ。商社時代の社員16年余で、一番多くの相談事もした。入社数年目に、第1次の社員振り分けがあり、数人が課長待遇に選らばれたが、その時も一緒だった。
それだけに、退社するときに心配もしてくれた。詰まらないことで争わされたくない友人だった。当時、私は明確な目標があった。
@尊敬される日本創りに貢献したい。
Aできればそれをビジネスにしたい。
Bそれよりも何よりも、こうした生き方をしたい、との思いを現実化したかった。
1973年には既に「第4時代到来論」を公表していた。そのころ人気の集合住宅群の「ゴーストタウン化」や、レジャーランドの乱立を「廃墟ランド化」と呼び、危惧の念を発していたから、その代替社会を構想し、その私的モデルを創り上げたかった。
Bはほぼできたように思っている。
Aはこの2人に期待していた。
とりわけ高橋さんには社長になってもらい、「ゴーストタウン化」した集合住宅群や、「廃墟ランド化」したレジャーランドも活かし、資源小国の日本を、次代を彷彿とさせる国家に生まれ変わらせる種まきをしたかった。
残念ながら高橋さんは奇病で、専務時代に倒れた。それがヨカッタと思う。
つくづくそう思いながら、魚をほぼ片づけ、とっときのサクラとボタンに移ったが、3人ともに食傷気味になっていた。
ちなみに、伊藤忠は、工業デザインを学んだ私を活かしてくれた。配属された繊維部門の改革に関与できた。ワタから生地までのいわば原料とその相場が主商いだったがの、既製服化を主に切り返させてもらえた。それは、低賃金を売り物にする産地としての日本から、高賃金化を見越し、消費市場として育成する転換だった。
自動車、弱電気製品、あるいはカメラなど、部品を組み立て産業が跋扈する時代を見越し、それと同じ方式で(生地を縫製することで)組み立てる既製服化を提唱した。
問題は、自動車、弱電気製品、あるいはカメラなどと違い、3つの難しい課題を抱えている。1つは、商品寿命が短い。2つは、嗜好性や志向性の問題がある。3つは、これが決定的だが、サイズが必要なこと。自動車、弱電気製品、あるいはカメラなども配色や大小もあるが、既製服は同じデザインや配色の製品に、S,L,Mなどのサイズ分けまで必要になる。これは在庫管理単位を途方もなく増やしてしまう。
だから、このビジネスに感覚面におぼれずに精通すると、とてもためになる。現在伊藤忠は、高橋さんの部下であった男が社長だが、このたび利益では、商社では1番になった。偶然(資源関係の不況時期の問題)だけの問題ではないと思う。
翌朝、澄ましのお雑煮が出た。これが狙いの餅だった。同じく翌朝のこと、庭に「モミジ」の元、シカの侵入に気付かされた。パンジーが丸坊主にされたのはまだしも、ケシまで食べられており「恨みを買った野よ」と妻に笑われた。
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