この26日に、アメリカから学生たちを迎えるが、その受け入れ準備に苦慮した。その過程で、古き写真を探すことになった。
まず「あった」と叫んだ一枚は19歳の2月の写真だった。結果から見れば、19歳の時に私は生涯設計を決めていたようなことになったが、この1枚は「カラダのサバイバル」を教えてくれた体験だった、と言える。高校時代の親友が、受験を終えた私を誘った先は山の中で、折悪しく雪が降り出したが、それがヨカッタ。
実は、「ココロのサバイバル」をこの4か月前に体験している。それは、スプートニクが飛んだ夜のことで、知的障害者であった源ちゃんの一言であった。
このたび、アメリカから迎える学生も、当時の輪足とよく似た年頃だ。それだけに、「ココロのサバイバル」だけでなく、「カラダのサバイバル」も体験していたことに気付かされ、嬉しかった。
次の写真は、所はミュンヘンでの数葉の写真だった。ホフブロイハウスという大ビヤガーデンでの思い出を彷彿させた。2人の大男(ポリスだった)に、つまみ上げられ、放り出された体験だった。数葉の写真は、そこに至る手前と、事情が分からずに、帰途「証拠(理不尽な目にあわされた)写真ダ」とばかりに、ほろ酔い加減で振り返り、フイルムに収めた写真があった
後で分かったことだが、放り出された理由は、立ち上がって奇声を張り上げ、周りの人にけしかけたことだった。そこは、かつてヒトラーが旗揚げをしたビヤガーデンであり、敗戦後の西ドイツ・バイエルン州では、立ち上がって演説するようなことを禁じていた。
「眼からウロコ」だった。あろうことかこの日、私は、周りの人たちに「今度は、イタリヤ抜きでやろう」とけしかけていた。当時、西ドイツと日本奇跡の復興と囃されており、GNP2位と3位になっていた。だから、今度はイタリヤ抜きで、2位と3位で1位をやっつけよう、と私は奇声を挙げ、調子に乗っていたわけだ。
ドイツは、敗戦前の加害を問題にして大きく取り上げていた。他方、日本は加害をひた隠しにして、被害を問題にしていた。皇軍の聖戦を信じていた私は、過激だった。
この時を転機に、私は「真の愛国心」に燃えており、「真の安全保障」を夢見るようになっている。それが、@尊敬される日本創りに貢献したい。Aできればそれをビジネスにしたい。Bそれよりも何よりも、こうした生き方をしたい、との思いを現実化した易、だった。余談だが、その目には、真っ逆さまを行く現政権が危険に写る。
3葉目は、喫茶店の運営にもアイトワが手を出した当時の1葉だった。この5人が常連でこの春まで30年間にわたって運営してきた。だが、このたび1人が引退した。そして、維さんと、もう1人、新たな人が加わって、やりくりし始めている。
それだけに、この1葉にも感慨深くなる何かがあった。
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