ひと悶着

 

 披露宴の主会場となるテラスから「はんだか」を運び出す必要があった。妻は「4人で運べばナントカなる」と言ったが、私は休日を活かし、2人でなんとかと考えた。それは、私たちの加齢や仕舞うことも配慮した作業の段取りを頭に描いていたからだ。

 そのやり方を見て、妻はまた「4人で運べば簡単なのに」と言った。そこで私は「カチン」ときた。ある嘆かわしい思い出が蘇ったからだ。また、めでたいことを控えているわけだから万全の心配りをしたいところだ。その配慮が足らない、とも思った。

 この移動は、ゆるやかとはいえ幾段かの2種の階段を上り下りする必要がある。誰か一人が足を踏み外したら、怪我をしたり、機械を傷めたりしかねない。

 もう1つの理由である嘆かわしい思い出とは、それは日本の旧職業軍人の唾棄したくなるような考え方であった。戦時中に見かけた嫌な光景がよみがえった。幼心に、許せないと思わせられた思い出の数々だ。

 体躯に優れない輸送兵などがさんざん苦労していた姿が痛々しかった。ガン強そうな職業軍人が威張り散らし、怒鳴るばかりで、手助けしない姿は憎々しかった。せめて、弱いものには弱い者なりのやり方を考え、教えるべきだ。頑張るだけがノウではない。

 怒鳴ると言えば、父も母をよく怒鳴りつけた。だが、職業軍人の怒鳴りとはまったく異質に見えた。幼心に、そこに次元の違いを見出していたのだろう。後年に知ったことだが、死を覚悟していた父は、あとに残す母子の行く末を案じ、手短に母に会得させたいことがいっぱいあったわけだ。母は、父を死なせてなるものかの一点張りで、そこらあたりを聞き分け、会得するだけのゆとりなど持ち合わせていなかったのだろう。

 当時は、ちまたで「パリパリの甲種」との褒め言葉や、「丙種だった」との嘆きの声がよく聴かれた。兵卒として刈り出し、一人前に使えるか否かで成年男子は評価されていた。これも後年になって意味が分かったことだが、「輜重(しちょう=軍需物資)輸卒(輸送兵)が兵隊ならば、蝶々とんぼも鳥のうち」とのふざけた語らいもよく聞かれた。殺し合いに当たらせ丙種であった。だから、丙種はもとより、「輜重輸卒」にしか使えそうにない息子を産み育てた親は肩身の狭い思いをさせられていた。

 その心が、招集兵の過半を戦地では、餓死と病死でのたれ死にさせる結果に結び付けている。日本軍は、空母や戦艦を標的に選びたがったが、アメリカ軍は、輸送船や給油船をたたく兵糧攻めを大事にしていた。また、「輜重輸卒」などの役割を尊重し、ブルドーザ−などの開発などにも熱心であったからだ。ブルドーザ−は、戦車を改造することから始まったアイデアであったと聴く。

 日本の戦車は、アメリカの戦車の敵ではなく、対峙すれば簡単に撃破された。だが、ブルドーザ−に改造して活かしていたら、それなりの作戦が組めたことだろう。にもかかわらず、イチコロで鉄くずにされる投入を繰り返した。

 ベトコンはその点では賢かった。賢い戦い方をしている。こんなことまで考えてしまい、なぜか私はカチンときた。そうとは分からない妻は、たまったものではなかっただろう。