M・O・Hは、いつかは打ち切られかねない企業がスポンサーの機関誌だった。それを長年にわたって発行しながら、肝心の何かが欠けていた。いつかは打ち切られかねないとの心構え、「持して待つ」ココロが見られなかった。
「もったいない・おかげさまで・ほどほどに」は、ある目的のための手段だろう。にもかかわらず、ある時は「もったいない」のココロの好例を、またあるときは「おかげさまで」と「ほどほどに」の好例をと、いわゆる「つかんでは投げ、つかんでは投げ」する記事の繰り返しが続いた。一向に目的への収斂が感じられなかった。
2度ばかりアイトワを取り上げてもらえ、アイトワが目指すところを紹介したが、それも「つかんでは投げる一例」にしてもらえたに過ぎず、枯れ木も山の賑わい程度にしか役立てなかった。その目指すところはようとして私には掴めなかった。
もちろん2度ばかり意見を述べた。予算消化のごとき機関誌発行のあり方に不安を抱いたからだ。だが、その議論は深められず、用意されていた編集長の「つかんでは投げる」プランが紹介され、「よろしいナ」で終わるのが常であった。それが編集方針ならば、混ぜ返すことはない、と控えざるを得なかった。
とはいえ、発行人の年齢と、いつかはスポンサーに打ち切られかねないありように思いを馳せ、編集委員の端くれとして、私は焦った。同姓のよしみもあった。その人柄に、私だけでなく、妻もとても惹かれていた。
そこで、最後のチャンス到来を期待して待つことにした。スポンサー企業がダラダラした編集にシビレを切らせ、Z旗がかかる時のことだが、それを待つことにした。きっと発行人の役に立てることが生じるはずだ。
だが、その最後も、総集編を創る、といったような企画は計画されず、プツンと切れた。でも、チャンスはまだある、と心構えた。時あたかも、『アイトワ
12節』の編集中だった。しかも、瞳さんに、アイトワ訪問時に「森さんをお誘いしましょうか」と提案してもらえた。チャンス到来と、私は喜んだ。
結果、「さすがわ」と感服した。発行人は私より年上で、死生観を固め、達観の域に達し「すべて、あるがままを受け入れる心境」の人、と見た。
好天の下、科学の功罪が話題にされ、「これダ」と思う瞬間もあった。アイトワでは「古人の知恵」をもって循環型社会に戻れるとは思っていない。近代科学の成果との掛け合わせが不可欠だと見ている。その取捨選択が必定だと見ている。
そこで膝を乗り出した。再度、「さすがわ」と感服した。人生の先輩、森さんは、達観の域と見た。そのあとは、良きときが流れた。妻はデザートのアイスクリームにも一工夫した。記念撮影の後、会場の後片付けをしながら「良きひと時であった」と何故か肩の荷が下りた気分にされた。
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