時代に逆行

 

 井上ひさしは、憲法について、国民が発する「政府への命令書」と喝破している。国民が、国家の基本的な形を作らせために政府にはめるタガと、明快に位置付けている。ということは、間違っても政府に簡単に手を付けさせてはならない、との警報であった、と理解してよいだろう。

 この伝で言えば、「私は立法の長」と幾度も豪語した現総理は、幼稚な誤解であったのだろうが、太陽王・絶対君主のような心境になっていたのだろう。その証拠に、憲法を国民にはめるタガのように変えようとしている。しかも、戦争の出来る国にしようとしている。まさに恐るべき事態である。

 時代は、世界の平和に向かっている。もちろん、それに棹さす人たちも多い。そのせめぎあいが当分続くだろう。世界の平和は、情報の開示によって加速される。それに棹さす人たちは、情報開示が一番怖い。それは世の常だ。それが昨今のせめぎあいの本質だ。

 この点で、日本は今、時代に逆行している。それは日本を加速度的に貧しい国にしかねない。世界は、国家間の鉄や竹のカーテンだけでなく、国家内の鉄や竹のカーテンも意味をなさなくなるように努めているのが時代の流れだ。

 残る問題は、個人がココロの内に築く鉄や竹のカーテンだろう。いわゆる、偏見やわだかまりの意識だ。トランプ現象も、その顕在化の一例だろう。わだかまりや偏見などの共鳴現象だろう。

 グローバリズムの世界的波及はこのカーテン、あるいはわだかまりや偏見を食い物にする。「得をしているような気分にさせ、ぬいぐるみ剥がしてしまう」。「虚勢を張らせて、ぬいぐるみ剥がしてしまう」。そのシステムの普遍化が加速している。

 ベトナム戦争時代に若者の反乱があった。アメリカで、フランスで、ドイツで、そして日本でも、と若者が徒党を組み、暴動騒ぎを起こした。きっと、若者の感受性がこのままでは危ないと感じ取り、「世の中を根本から変えなければ」といきりたたせたのだろう。私もそうした気分になった時期もあった。

 アメリカは敗れるはずがないベトナム戦争に負けた。ベルリンの壁も勝手に崩れた。いずれもが情報が仕業だった。情報の流布によって化けの皮が剥がされた現象だ。

 だが、悪しき治世者は、ことここに至っても、国家内に鉄や竹のカーテンを敷き、利得を狙おうとしている。手始めに、国民を盲目にさせようとする。

 このたび、ドイツ議会もアルメニア人迫害を「虐殺」と認定した。第1次大戦中の出来事の認定だ。オスマン帝国時代のトルコで、アルメニア人の大量虐殺事件があった。この100年近くも前の出来事をドイツ議会も認定した。即刻トルコは反発したが、それは虚しい足掻きになるだろう。ドイツは、徹底しておのが加害をあからさまにしている。

 私はトルコが、好き嫌いで言えば、大好きだ。あてにもしている。日本人が、たとえ場南海トラフ大地震などの天災などで、100万人単位の難民を出さざるを得あくなった時に、それを100万人単位で受け入れてくれる国民はトルコしかない、とさえ思っている。

 でも、それとこれとは別だ。あってほしくない事実を、なかったことにしてはいけない。問題を余計に複雑にして先送りし、未来世代への借財を幾何級数的に膨らませかねない。

 私はこの虐殺の事実を、一人のアルメニア人から聞かされた。ステファンケリアンというメッシュの革靴で有名なフランス企業がある。そのケリアン社長から聞かされた。30年ほど昔の話だ。ケリアンさんとは仏日で幾度となくつき合い、フランス南部にある会社を4度も訪ねた。彼はルメニア系フランス人だった。

 その父は、この大虐殺から陸路逃れ、フランスに難民として流れ込んだ、その折に引きつれていた息子の一人がケリアンさんの父親だった。生々しい伝承だったし、思い出の品もあったようだ。だから、フランスなど難民の多くを受け入れた国々はとっくの昔に「虐殺」であったと認定している。トルコも時代に遅れている。

 その意味では、このたびの三菱マテの決断は賢明であったと思う。早い者勝ち、と見たのだろう。その考え方は責められない。原因は日本政府の態度にある。いわば一角が崩れとわけだが、健全な方向の流れに結び付いてほしい。

 『世界』5月号で、「気がつけば、街頭録音で政権と同じ考えを話してくれる人を何時間もかけて探し回って報道している」との大手テレビ局員の実情報告があったことを、金平茂紀氏は紹介した。時代に逆行じた事実への警報だ。危惧だろう。

 これは、NHKの籾井氏の責任大だ。「当局の発表の公式見解を伝ええるべきだ。いろいろある専門家の見解を伝えても、いたずらに不安を掻き立てる」と局員にクギを刺し、まるで大本営発表時代への回帰のようなことを促している。

 その張本人は首相だろう。「これまでの約束とは異なる新しい判断」という奇妙な新語をこしらえた。要は「これまでの約束を破る」と言えば済むことだが、「敗走」あるいは〔撤退〕を「転身」と言い換えた大本営発表方式を採用した。時代に逆行だ。そのお自摸の中は、すでにどうなっているのか。

 特定秘密保護法に基づき、国はあらかじめ秘密にする枠取りをしていたようだ。本年度の334件中の3件は埋められなかった、と奇妙な公表をしている。これも時代に逆行だ。これでは世界の流れに取り残されてしまう。

 スノーデン事件やパナマ文書に例を見るまでもなく、あらゆる情報は、いずれか開示される。国政も、開示されることを期待して励むべきだ。それ本当の努力のしがいではないか。この考え方が、平和の源泉だと思う。

 現政権は、従軍慰安婦問題を教科書から消そうとしている。これも時代に逆行だ。国家として認めた以上は、教科書に詳述すべきだ。さもないと、世界は黙っていない。世界記憶遺産にしようとする動きがでており、加速させるだけで済むまい。問題を余計に複雑にして先送りし、未来世代への借財を幾何級数的に膨らませかねない。

 国連の「表現の自由」に関する特別報道官デーヴィッド・ケイ氏が来日し「日本の報道の独立性は重大な威嚇にさらされている」と警告した。国際NGO「国境なき記者団」は、「報道の自由度ランキング」で日本の順位を前年度より11も下げ、180国・地域の内で72位と、陰鬱な順位に数えた。如何にして、この問題を克服するか。

 トランプ問題と似たことが日本でも進んでいる。得をしているような気分にさせ、ぬいぐるみ剥がしてしまう」環境が醸造されつつあるようで、心配だ。