ブヨに咬まれ、免疫を持っていなかった私(西宮から疎開)は、脚に幾つもの化膿傷を作り、子どもながらに悩まされた。その時に伯母は、母に「ジュウヤク」を採って来させ、すりつぶして傷口に当て、包帯で巻き、「これで大丈夫」といった。
今も、その傷跡は脚に幾つも残っている。膿み始めた時の記憶や、次第に酷くなり、子どもながらに悩んだ記憶は残っている。だが、その後の経過はなぜか記憶にない。多分、伯母の自信に満ちた治療と、「これで大丈夫」との一言に安堵したのだろう。
打ち身で脇腹に大きなあざを作った時も、伯母は、母に「ジュウヤク」を採って来させ、メリケン粉も用意させた。ジュウヤクをすりつぶして汁を絞り、その汁でメリケン粉を練って糊状にした。それをネルの生地に厚めに塗り付け、幹部に張り着け、三角巾で縛った。たしかその後のことだったと思う。腹をいためた時は、このしぼり汁を飲ませた。
私のココロでは、いつしかジュウヤクは万能薬のような印象が固まった。そのころのことだと思うが、伯母は「だからジュウヤク」と呼ぶ、と母に教えた。当時の私のイメージでは、「十役」だったが、今にして思えば「十薬」だろう。
そのころも薬局はあったが、薬はよほどのことでもない限り買い求めには行かなかった。あらかたの傷や病気は、母が、伯母に教えられたりしながら治療した。だから今でも、私は「放っておけば死ぬ」と予感するまで医者にはゆかない。
当時は、子どもはそれが当たり前だと思っていた。事実、医者を呼んだ家があると、当時は、「葬儀が近い」と憶測したものだ。治療する大人も、かくして生きる自信をつけていったのだろうし、子どもも、大人を信頼していたのだろう。
世の中が少し豊かになり、富山の薬売りが訪れるようになったが、あの頃は、多くの人が自立していたように思う。自己リスクで生きており、信頼を基盤に生きていた。
|