「匠の祭典」

 


 炎天下の京北町、木材加工センターで繰り広げられた匠の祭典は、まるで「アーミシュの祝いの日」のようだった。アーミシュは、アメリカでのみ生き残るプロテスタントの一派だが、工業文明を忌避している。そして、新婚の2人へのお祝いは、まるでお祭りだ。村中の人が一堂に会し、男は総出でバーンと呼ばれる大きな木造建物を立て、2人の門出に進呈する。村中の女は食事つくりに当たる

 夜も楽しかった。21畳の部屋に10人相部屋となったが、アイトワの3人が(自分たちの布団を敷かなくては、と)急いで風呂から戻ったときは、既に布団が敷き詰められていた。その後「もう1人追加」となり、11人相部屋となったが、この時に、「布団を詰め合うついでに」と知恵を出す人がいた。「夜分にヒトを踏まずに済ませるように」と、それまでは枕もとを空けて2列に敷き詰めた布団を、中央部に道を設けるように動かすことを提案。その後も、職人気質に触れることが多々あり、なんとも心地よかった。

 これは、全国各地から長津勝一(鋸の刃研ぎを通して達観の域にある)師匠をしたい、この木材加工センターに集った人たちの共通項、と言った方がよいのかもしれない。大部分は大工だが、庭師、畳屋、あるいは五島列島の医師(自立力が健康の源泉、あるいは健康を維持させる健全な精神の源、とばかりの生き方に見える)をはじめ、その息子の鍛冶屋(他に息子が3人いて、桶屋、医師、そして獣医)なども参加していた。網田さんは簾(スダレ)職人だし、もちろん日帰りの見学者なども大勢いた。

 京北町は、森林面積が93%を占める木材供給地で、歴史がある。平安建都の際も、上桂川から丸太を筏に組み、桂川まで運んでいる。宿泊と夜の勉強は、木材加工センターから車で10数のところにある府の施設・ゼミナールハウスであった。

 この集いにもぐり込み、初めて1昼夜(28時間ほど)を大勢の職人と共にする経験をしたわけだが、「労を惜しまず、寡黙だが、技の伝授には親切で」など、さまざまな職人共通項に気付かされ、なんとも心地よかった。

 思えば、職人は、自分が造ったものを大事に扱われることを願っている。大事にして、世代を超えて用いる人に巡り合えることを誇りにしている。この日の私は、はるか昔の話を思い出した。ある鍛冶屋の壁面に、使い古されたカマが沢山飾られていた。いずれもが極端なまでに使い込まれ、細くなっていた。その鍛冶屋では、研ぎに研がれて刃の部分が一文銭の穴を通るまで細くなるまで大事に使い、持参すると、新品1丁と交換した。

 工業社会では逆だ。ノコギリも、目立ての出来ない使い捨てを広めている。衣服でも、袖も通さずに捨て、次の流行品に手を出す人を歓迎する。機械などは、何処かが故障しやすいように工夫しているようだし、部品の保存期間をカルテルかのごとくに短期化しておりし、買い替えを強要している。要は、自分本位で、金儲けの手段だ。それを繁栄と見ており、現政権はその邁進に躍起だ。それを国民も支持している。

 EUからの離脱を決めたイギリスでは、150年以上も前に工業化の未来を危惧したウイリアムモリスがまた見直されている。職人の労働に内包されるソフトウエアーに、世界で初めて気づき、今日でいうデザインの概念を固め、職人賛歌した人だ。

 初日の模範演技では、それぞれの腕自慢が、様々な匠を披露した。鉞(マサカリ)でのはつりの名手チョウナでの名栗(なぐり)の孤峰、伊勢の遷宮工事にも参加した槍鉋(やりかんな)の名手、あるいは大鋸(オガ)での木挽き。木挽きは、大鋸だけでなく2人で引く枠ノコなどもあった。思えば、これらの匠は、いずれもが、工業化、機械化の波によって不要とされた巧みである。

 とりわけ大鋸での木挽きは電動帯鋸の出現で存在価値を失くしている。
 


まるで「アーミシュの祝いの日」のようだった


村中の女は食事つくりに当たる

既に布団が敷き詰められていた

はつりの名手

チョウナでの名栗(なぐり)の孤峰

槍鉋(やりかんな)の名手

大鋸(オガ)での木挽き

2人で引く

枠ノコ
   

 妻と私は「鋸だけでなく斧(おの)使い」ではいささか自信がある。だから私は、大鋸競技にエントリーしていた。だが、実際に大鋸を手にし恐れをなした。この体調で「この灼熱の炎天では」と、真似ごとをしただけで脱落した。だが、五島列島の医師(今回で3度目の顔合わせ)は、縦引きに黙々と取り組み、見事丸太を切り分け、銀メダルを得た

 大鋸で1本の丸太を切り分ける木挽きは、大変な力仕事だし、大変な技術を要する。その昔、電動鋸が普及する以前は、大工は一升飯(の大食い)と呼ばれたが、その時代に木挽きは「一升二合で三尺のクソを出す」と言われた、という。ちなみに百姓は七号飯喰らい。

 それだけに、大鋸(縦引き)の日給は高く、大学教授の初任給の半月分相当だったという。とりわけ横引きは熟練を要し、1月分相当だったという。この度も、横切りに挑戦する若者がおり、埼玉から参加の大工や、木挽きに精通した職人の助言を得て頑張っていたが、苦戦していた。にわかには会得しかねる匠と見た。ちなみに、雪国では丸太を雪に埋めて縦引きした、との話も聞いた。

 チョウナでの名栗(なぐり)では日本の最高峰と聴いた名人の腕前に、文字通りに舌を巻いた。鬼気迫るものがあった。名栗終えた幅30cmほど、長さの6mほどの板を点検したが、30cmの幅に、3列、5列、そして8列の名栗が施されていた。これをアッという問に仕上げる早業だった。だが、頼めば1日仕事だという。「さもありなん」と思った。

 夕食の後、講義があった。まず、チョウナの使い手が演台に立った。チョウナの匠は、小1時間にわたって「語って余りある技」と見た。この技は、やがて迎えるであろう時代、私は職人の時代と見ているが、に広く見直され、好まれるであろう、と見た。そう思うだけに、私も質問した。チョウナの歴史、せめて全国各地で繰り広げられたチョウナの土地柄毎の差異ぐらいは知りたい、と思ったからだ。

 次いで、長津師匠の実践的な講義があった。既製のノコギリを用いて、ちょっとした技の付加で切れ味に差異が生じることを体感し、ノコギリの本質に近づく講義であった。次いで、屋外に引率し、ズブの素人にも挑戦できるノコギリの焼き入れの実演。

 長津師匠は不思議な人だ。アーミシュと相通じるところをお持ちのようだ。古のうるわしき文化、とりわけ古人の知恵を尊重しながら、近代科学の成果を、真の自立力を高めるために、見事に活かされる。

 エントリー競技は2日目の午後だったが、チョウナでの名栗(なぐり)(とても危険に見える)と鉞(マサカリ)でのダイナミックなはつりに応募した人が多かった。ちなみに、チョウナの柄は、エンジュの木が用いられ、曲げて育てた上に、切ってから乾かし、固めてから用いるという。

 槍鉋での削りにエントリーした人は少数だった。槍鉋は、用途によってさまざまな形態の槍鉋を使い分けるようだが、戦国時代に台鉋が出現するとさびれている。一部の用途(たとえば丸柱)を除き、均質に削れる台鉋に勝てなかったわけだ。

 これは、寸分たがわぬ既製品をいとも簡単に造り出す工業生産品に、高い価値を見出し、職人の価値を減じさせた近代世相の、いわば走りであったのだろう。

 その後、薬師寺の三重塔再建時に宮大工の西岡常一が取り上げるまで(千利休は愛でたようだが)は、忘れられた存在であった、という。

 大鋸に挑戦した人は、朝から取り組んでいたが、これも少数だった。あまりにも地味な作業であるだけでなく、電動のこぎりにかかったらひとたまりもない作業だ。しかも、槍鉋と違い、仕上げ加工でないだけに、効率とか採算性などで言えば、生き残れる余地は少ない。それだけに、真の自立を尊ぶ宮崎医師がこの大鋸に取り組んだ心意気と考え方に、とても心惹かれた。五津列島の人は「医は仁」の人に恵まれているのではないか。こういう医師になら、医療過誤問題は生じないだろう。

 腕自慢の競技は部門別金銀銅の賞が用意されていたが、他に、総合優勝1位の知事賞と2位の市長賞があった

 市内から遠く離れた京北町での2日間だし、ゼミナールハウスは坂や階段の多い施設だったから、また、宿舎では妻の背を受けられなかったから、舞鶴さんと網田さんに随分気を配ってもらうことになった。おかげで、楽しく無事に過ごせた。

 後日、長津ご夫妻を訪ね、チエーンソーの目立てに用いる新兵器を手に入れることも出来た

 

実際に大鋸を手にし

恐れをなした

縦引きに黙々と取り組み

銀メダルを得た

横引き

日本の最高峰と聴いた名人

長さの6mほどの板を点検した

8列の名栗

チョウナでの名栗(なぐり)(とても危険に見える)

ダイナミックなはつり

部門別金銀銅の賞

 

総合優勝1位の知事賞と2位の市長賞があった

新兵器を手に入れることも出来た