エバ・ガードナー

 


 私は中学時代の映画鑑賞「キリマンジャロの雪」で、エバ・ガードナーを見ていたことを後年知った。それは、高校時代に観た映画「裸足の伯爵夫人」で、その主題歌「裸足のボレロ」にとても心惹かれたことがキッカケだった。

 その後、短大に勤めていた時に彼女の死を新聞報道で知った。同時に、彼女が人生をやり直せないことを悔やみながら死んだことも知った。そこで早速、その生き方を講義で引用することにした。その講座では、同じく名女優として誉れ高きマレーネ・デートリッヒをとりあげていたが、その好対照の例を得た、と私には思えたからだ。

 その講義は「ライフスタイル論」というわが国では私が初めて用いた講義名の下での開講だった。小は小なりに、あるいは大は大なりに、ではないが、「いかに生きるか」を掘り下げ、ちょっと立ち止まって考え、悔いのない人生にしようではないか、と呼びかけた開講だった。あえていえば、これを講じたくて短大の招聘に応じたようなところがあり、数年をかけて準備をして開講している。

 もちろん、それなりに高邁な内容も多々盛り込んだが、それだけではあくびをされかねない。そこで、合間に、興味をそそる事例などを盛り込み、この講座でも眠る人を出さないように工夫した。その一環として、呼び捨てが妥当な超高名女優を事例に選んだ。

 エバ・ガードナーは、かの天下の美女とうたわれたエリザベス・テーラーを嫉妬に狂わせたことがある。あるいは、フランク・シナトラを離婚させて、結婚するなど、男にも不自由せず、出演料にも浴びるほど恵まれ、欲しいがままに生涯が送れたように見られている。だが、欠けていたものがあったと気付き、悔やみながら死んだ、と言われる。

 それは、非日常に翻弄され、しかるべき日常に欠けていた、と見てよいだろう。言葉を変えれば、虚に惑わされ、実に欠けていた、と見たわけだ。わが国の新聞でも、彼女の死を、なすすべもなく悔やみながら死んだかのごとくに報道した。

 ライフスタイル論の講義では、この対極のごとき事例のマレーネ・デートリッヒを私は取り上げていた。「100万ドルの脚」と喧伝された国際的肉体派の女優であったマレーネ・デートリッヒは、臆することもなく結婚したことを公表しており、撮影時に赤子を同行したことでも有名になっている。

 彼女はドイツが生んだ女優だが、ある里帰りの船旅の途中でヒトラーの演説がラジオから流れてくるのを聴いた。すぐさま彼女は途中下船を決意し、反ヒトラーを誓う。もちろん飛ぶ鳥を落とす勢いだったヒトラーは、幾度も彼女にさまざまな好条件を付けて帰国を促した。つど彼女は拒否。ついに反ナチズムを掲げて連合軍兵士の慰問に励むまでになる。当然ナチズムに心酔していたドイツ国民は、彼女を裏切り者「売国奴」とののしる。

 やがてナチズムドイツは崩壊。ユダヤ人虐殺問題なども明らさまになる。マレーネ・デートリッヒの母は、肩身の狭い思いをしたまま帰らぬ人となっていた。マレーネ・デートリッヒは母親の側で永遠の眠りにつくことを願いながら、母国に帰れぬままに死ぬ。

 西ドイツは賢明だった。ナチズムの首謀者を、執行猶予期限をつけずに糾弾することを決意し、それを厳格に実行し、世界で後指を刺されることなく今日に至る。マレーネ・デートリッヒの扱いについては、東西統一後の首都ベルリンにマレーネ・デートリッヒの名を冠した通りを作り、彼女の生き方こそ、真の愛国だったと讃える。そして、彼女の希望通りにその亡骸を母親の墓の隣に埋葬した。それは名誉回復以上の扱いだ。つまり、ドイツ人の覚醒と反省の証と見てよいだろう。

 

毎日新聞夕刊 1990 1 26


読売新聞 1990 1 28
   

 
「裸足のボレロ」