あのキャンパスのはなやぎ

 

 短大に勤めで「思い残すことはなかったか」と問われれば、私には「ある」と応える。なぜなら、まず1番に「ライカ」という女性に「申し訳のないことをした」との思いが、今もすぐによみがえるのだから。

 「ライカ」とは、芸名だが、本名も「来家」。「良い苗字の卒業生だ」と思った。女子プロボクサーとして日本最初のチャンピオンになった人の芸名ダ。

 彼女は、医者に「出場は危険」と宣告されるほどの身体的疾患を抱えていたが、試合に望み、初代チャンピオンになった。私は「ライカ」を学校に招聘し、後輩の前でスピーチを、と願った。だが、学長のこの願いは前に広がらなかった。これが唯一、事務局が思ったように動いてくれない事柄だった。だが、私にとっては2つに1つの選択になった。

 断固事務局と渡り合い、さらに望ましき学校にしてみせ、結果は「めでたし」にする。あるいは、解らない人には無理な説得は控え、自助に基づく自覚を期待する。このいずれを選ぶべいか。私は後者を選んだ。其れにはそれなりのわけがあったからだ。

 幸い、学長を引き受けた時は定員割れした学校だったが、2年目に定員はオーバーに、3年目には全学科が定員オーバーになっていた。それはひとえに在学生の貢献、と言ってヨカッタ。母校を訪ねたり帰ったりした時に、学生は教員や後輩の生徒に「この学校、よさそう」と短大を語り始めていたのだから。実は、それは怪我の功名だった。

 入学者数が減るということは、そのまま収入減になる。だから私は必死の思いで学生に学長として訴えた。まず、大学のお金は、学生のお金だ、と認識ささせた。そのお金をいかに使うべきか、と問いかけ、私の想いを披瀝した。

 学長車は既にない。学長交際費は使わない。教職員の給与は増やさない。教育経費は削らない。大学祭は学生主体で実施してほしい。掃除はトイレも含め、教員と学生で行おう。家庭を持った時の学習だ。

 さらに加えて、全学禁煙。ISO14001取得学校にする。学科のカベを失くし、「小さな巨人」を目指そうではないか、など。

 こうした想いは、1つの信念から生じていた。私の願いは、誰しもが「これが本当の私ダ」と思えるような生き方をして、安らかに死ねるようにすることダ。そのためには、両親から授けられ、生まれながらにして持ち合わせた「潜在能力」を発揮できるようにしたい。「これが本当の私ダ」と思える時が、たとえひと時であれ持てる人生であって欲しい。

 きっと「ライカ」は、チャンピオンになった時に、そうした実感をリンクの上で得ていたに違いない。だから、一瞬であれ、そうした実感を得た人に、後輩の前に姿を露わしてもらい、思いを率直に語ってほしいと願った。招聘したかった。

 「自己実現」という言葉の意味が、持ち合わせて生また「潜在能力」が露わになり、「これが本当の私だ」と実感すること、であるとすれば、多くの学生に、それを実感してもらえ得るようにしたい。小は小なりに、大は大なりに、「これが私だ」と叫びたくなるような人生を手に入れてほしい。きっとライカから何かをつかんでくれるはずだ。つかんでくれる学生であるに違いない、と私は信じていた。

 そうした願いを抱いてもよい学生なのか、否か、と不安を抱きながら、学長の白羽の矢を立てられた時に、受けた。だから、1年間の覚悟を決めた。その覚悟に従って、私は全学生に幾度かにわたって問いかけている。3つの約束」を守るか。「真似はしょせん真似だ」と自覚するか。「本当の愛」を見抜けるか、など。

 私は、本当に嬉しかった。学生を誇りに思った。若者を誇りに出来る国にできる、とさえ思った。「それで当然ではないか」戦時中は「特攻兵器」にさえ志願したのが若者ではないか。大人の責任を感じた。若者の感受性に私は期待した。

 「ライカ」は、短大3部の卒業生だった。それだけ余計に私は、「招聘するよう」に事務局に2度にわたって迫った。だが、動かなかった。だから、あきらめて、無理な説得は控え、自助に基づく自覚を期待することにした。

 短大の3部とは昼間二交代制で就学する職業人コースである。2部は夜間コースだ。3部授受するコースである。だから学生のウイークデーは、おのずと睡眠、勤労、そして就学で3当分したような日々になる。つまり、苦学である。就学したいが、家庭の事情などでやむなく、という人のコースであった。昼間(2年制)の人には1年間遅れるが、保育園、幼稚園、あるいは歯科医で、国家資格を得た人として就労したいと願う人が集い、その願いをかなえるコースである。私はことのほか尊く思った。

 それまでの学校関係者は「女工さんの学校」と言われることを嫌い、卑下していた。私はむしろ、胸を張るべきこと、と思ったし、今も思っている。むしろ、こうした人を万の数で卒業させた学校の責任を意識して、つまり最終学歴学校の存在意義を自覚し、学長の白羽の矢を受けていた。

 だから、私は学長に就任すると、それまで2部と3部で別々に行っていた卒業式や入学式を合同で開催するようになった。しかも、「3部の皆さん、入学おめでとうございます」とまず3部学生から先に祝い、その理由を述べた。「皆さんはすでに就職しており、社会人として認められています」と説明した。1部の学生には、この点で3部の学生に学ぶべきところがある、と諭したかった。学生はこれを素直に受け入れたのだろう。翌年度は3部学生を企業は送れなかったが、1部入学生の数がその答えのように思われた。

 それだけにライカを招き、在学生に紹介し、学校の何たるかを学生に気付かせたかった。ライカはもちろん経済的にゆとりがなく、自炊はもとより、厳格な私生活を護り、プロボクサーとしてのカラダを自主管理し、日本初の女子チャンピオンになった。つまり、日常を厳しく守り、非日常に挑み、新たな日常としてのプロボクサーになった。この点を私は高く評価し、そうした学生を輩出した学校を誇りに思い、在学生に紹介したかった。

 だが、この点で、まったく逆さまの考え方を持つ複数の幹部がいたわけだ。

 企業から3年間にわたって教育を移植され、国家資格を与え、無事3年後に新たな働き口を与えた学生ではないか。派遣した企業はもとより、新たに受け入れた働き口、資格を取らせた学校、そして何よりも本人の4者が、共に喜び合った仲ではないか。第一、本人は、何のために苦学し、国家資格と取ったのか。

 こうしたことを顧みずに、あろうことか女子がなぜボクシングなどを夢見てしまったのか。このような事例を、学校が讃えたようなことをして示しがつくのか。第一、国家資格を得させた私たちの努力は一体何だったのか。そう考え、事務局に焚きつける人が現れ、それ同調する人が徒党を組んでいた。この人たちも私と同様ように、教育の何たるかを問題にしていたわけだ。そうなると私は弱い立場だ。

 私は教育者としてはわずか10年しか経験のない。にもかかわらず、私は日本1の短大をつくりたかった。さまざまな事情で、学業に2年しか余分に時間やお金は割けないが、人生に夢を抱き、その夢に一歩でも近づきたい。そのために最も適した学校と言ってもらえる学校を作りたかった。だが、私には信念がある。その信念に基づかなければ私にはこの夢は現実化できない。信念を変えて、夢を現実化する自信はなかった。

 幸か不幸か、平々凡々と学長の椅子に座っているわけにはゆかない事情を別途私は抱えていた。「ライカ」には「申し訳のないことをした」との思いに駆られたが、学校を去ることにした。「思い残すことはなかったか」と問われれば、「ある」と応えたい。