この日、水島さんにはトイレ用雨水タンクに屋根を付けに来てもらえた。その折に「早めですが、お茶の時間にしては」と妻の提案があり、定休日だった妻と3人で喫茶。それがヨカッタ。未だリハビリ中の水島さんと、これからの生き方を語らえた。このところ、人生相談を受けることがとても多くなったが、その1つだ。
わが家はわが家なりに求めていることがあり、それが今後の時代を予感させそうに思う、と切り出した。なぜなら、早晩すべての人が、これまでのように「消費者」と総称されて済ませられる時代ではなくなる、と見ているからだ。済ませられる人と、済ませられない人に2分され、済ませたい人と、済ませたくない人の2分と掛け合わせて人義とが4つに分類されるに違いないからだ。
済ませられるが、済ませたくない人に始まり、済ませたい人なのに、済ませられない人に至る4通りだが、もちろんこんなことを直接水島さんに話したわけではない。この4つを頭に置いて、どのような人の需要に応えようとするか。心構えが必要だ、と訴えた。
これまでの世の中は、済ませたい人に、済ませられる人として通せる社会を構築して来たようなものだ。だからすべての人を「消費者」と総称出来た。ここに私は不安を見出し、済ませられるが、済ませたくない人を目指し、妻にも強要し、それが計りしれない豊かさを手に入れさせる源泉だと気付かされた。
工業社会への移行は一見では希望に溢れていた。誰しもが、生涯で、せいぜい8万時間(2000時間×40年)ほど勤労すれば、その他の余暇時間約62万時間(24時間×365日×80年−8万時間)は、消費者になれる、と思えたのだから。昔の貴族とそれを護る兵士は、人生70万時間のすべてが消費者だった。工業社会は、すべての人が、8万時間だけ辛抱すれば、あとは消費生活に明け暮れられそ、と思えた。だから、ほとんどの人は希望にあふれた。だがそこに私は落とし穴が隠れている、と不安を覚えた。
「毛づくろい」まで、エステサロンで済ませたくなり、人間にとって最も大切な日常を次々と見失ったてしまう。次第に、8万時間でえられる総収入よりも、もっと多くの消費生活がしたくなりローンまで組み、金利にも追われるようになる。それはそれでよい。残業などして頑張
ればよかったのだから。問題は、自然破壊や資源枯渇など新たに生じさせる問題だ。川の水まで汚してしまい、飲めなくした。それは、水が飲めずに孤独死する人まで生み出させた。
こんな想いを頭に描きながら、良い世の中を願う人たちのために尽くせる人生が望ましいのではないか、そう思いながら、水島さんとお茶の時間を楽しんだ。幸せになってほしい。
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