その折の挨拶に私はたまげ

 「夕べも、(シカが)入りましたね」が挨拶だった。それを「喜んでいるのだナ」と念を押した。喜んで報告するときのいつもの体の動かし方をしたからだ。うなずいた妻に、「どうして(シカが侵入したことが)分かったンだ」と問い質すと、「(夕べまで)残っていたギボウシがほとんどなくなっていましたから」と応えた。

 そのギボウシは内庭にある2株で、「こんなところまで侵入された」と当週私は憤慨し、「なめられた」と怒り心頭に達した。大きい方の1株は、3日前から葉がなくなり、葉柄だけが残っていた奥の1株は、葉の過半が食いちぎられていた。その残っていた葉の多くが、「前夜のうちに」なくなっていたことに、妻は気付いたわけだ

 実は、妻は大きい方の1株の葉がなくなったことを、私の教えられるまで気付いていなかった。私が一帯を手入れをしたので「スッキリした」と感じただけで、葉柄が残っているところまでキチンとは観察していなかった、しかも、私に教えられて知った時も、「ここまで入って来たのですね」と感心し、喜んでいた。

 要は真剣みがたらない。それが私は腹立たしかった。だが、この日の妻の嬉しそうな態度に触れ、火曜日の夜に遭遇した小さなアナグマを思い出し、反省の念が蘇り、あれで「ヨカッタ」んだ、とおおいに気が変った。

 実は、アナグマと遭遇したのは、シカの見回りに出て偶然遭遇した。アナグマは電池の明かりで気にならないようで、浮かび上がらせても少しも動じるところがない。ウロチョロしている。手にはバットを持っていた。この季節はいつも杖などをもって庭に出る。クモの巣を払うためだ。だがこの日は、シカとの遭遇を期待し、バットを持った。そのバットでアナグマに一撃を、と思った。バットを振りかぶり、後を追うようにしてウロウロ歩いた。茂みに入った時はジッと待った。待っていると側に出て来た。かと思うとすぐさま通り過ぎてゆく。やがてその動きの要領を心得た私は、バットを振りかざして待ち受けた。

 「エイッ」と一撃のチャンスが来た。バットでなく、杖であれば、打ちのめしていたことだろう。重いバット故に半テンポ遅れた。また、バット故に少し短過ぎ、地べた激しく打ち付けただけに終わった。アナグマは脱兎のごとく逃げた。

 もしバットが当たっていたら、凄惨な光景になっていたことだろう、と冷静になって考えた。自衛隊を、世界の災害救援隊にして、世界になくてはならない国にすべし、と叫んできた私だが、庭を穴だ らけにするアナグマと遭遇し、バットを持っていたものだから、恐ろしい己に仕掛けてしまった。そうなってしまうと、自己を正当化し、抜き差しならぬ深みに己を追い込んでいたことだろう。「」キチガイに刃物ダ」

 カメラを持っていたらどうなっていたのか、と思う。


 


葉柄だけが残っていた

奥の1株は、葉の過半が食いちぎられていた

 
「前夜のうちに」なくなっていたことに、妻は気付いたわけだ