日本語を反省

 

 「川ネ」と妻。私は「水ダ」と応えた。キュウリが形作った偶然の形状を面白がっていたはずが、いつの間にか「すべての子どもと、子ども抱擁する母の関係ダ」と私は主張するようになっていた。形状論が、なぜか、「水と川の関係論」に変っていた。おかしいナ、と私は気付き、その原因を振り返り、日本語を反省した。

 まず私は、「姉妹関係ではない」と発言していたことを思い出した。「そうだ、その間に」と、気付いたことがる。妻は「川と水は姉妹関係ネ」との発言をはさんでいた。

 私はこの、「川と水は姉妹関係」との妻の発言に反応し、その意図をキチンと理解できず、それがおかしなことに結び付けてしまったわけだ、と気付かれた。

 きっと妻は、私が並べた3本のキュウリが「川」と言われたら川と見えるし、「水」と言われたら水に見える形状であったことに気づき、漢字の形成時に夢を馳せ、元をただせば「川(という文字)と水(という文字)は姉妹関係であった」のだろう、と言いたかったようだ。にもかかわらず、私は「川と水は姉妹関係ネ」との一言に反応し、「川と水は姉妹関係ではない」「水を子どもに例えるならば、川は母ダ」と反応していたわけだ。

 それにしても、どうして、このようなおかしなことになったのか。こう考え始めて、やっと気づいた。それは日本語の欠点だ。主語をはぶきがちになる日本語の欠点だ。

 当週は、TV番組で、衝撃的な2本の番組を見た。ともに、日本の大本営がいかに無能であったかを明らかにするような内容だった。無能と言って差支えがあるなら、堅実を軽視し、妄想に生きていた存在であったことを露わにしていた。太平洋戦争開戦に反対した武官夫妻の物語と、長崎の原爆投下は防げたと見る2人の証言であった。

 これも、とどのつまりは、日本語の欠陥が露わにさせた1事例だといえそうだ。