そうであったか
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前回の学生の来訪は7月31日のことで、午後の焚火でよい燠が出来たと喜んでいた矢先に雨が降り出していた。その後、この日曜日の夕刻までカンカン照りが続いたわけだが、その間は2週間に過ぎない。にもかかわらず、畑はカラカラになり、井戸枠水槽は底が覗けるまでに水位が下がってしまったわけだ。 それまでは井戸枠水槽を、「いざという時の命綱」と見て来た。キンギョを棲まわせ、棕櫚や砂、あるいは炭を常備し、いつでも飲料に耐える水を2トンばかり常備している装置と見ていたわけだ。だが、なんてことはない、高気温の好天が20日ほど続けば空になってしまいかねない、と思い知らされたわけだ。 だから、次の渇水時には「底さらえをして、底にコンクリートでも張るか」と考えた。そうすれば、水の備蓄は可能になる。でもすぐに「それはやめよう」と思い直した。こうした装置を作り、「断水時の備え」として真似たい人には「底を張っておくように」と助言すれば済むだけの話、と思ったわけだ。もっと大切なことがある。 このたび体験で分かったことがある。30年来生じたことがないことを体験したことだ。簡単に異常渇水状態に襲われかねないことを学べたわけだ。これは、底を張っていたら気付けなかったことだろう。この体験をもとに、これから留意しながら、経験を積み、何が起こりつつあるのか五感で確かめたい。そのための実体験装置としての機能を尊重し、このまま残しておくことにしよう。その方が「真の生きる喜び」を、つまり五感を超えた「実感ある生き方」を手に入れたい人への助言がし易くなる。より有効に違いない。 もちろん新設した自家用水洗トイレの雨水化装置も、タンクが空になってしまい、水道に切り替えざるをえなかった。こんなに早く、こうした事態に直面するとは思わなかった。この装置の位置づけを再検討する必要がある、と考えさせられた。つまりこの装置を、「断水時対策」に主眼を置くのか、「水道水節約」のために活かすべきか、考え方を整理し直す必要があるわけだ。もとより、「水道代金節約」装置としては割が合わないことは、見積もりをたてた時点から分かっていたことだ。 もちろん、こうした装置を地域的に普及させれば、いかなる利益を生ませ得るか。それを考えることが、これから最も大切な研究課題になるはずだ。洪水とか浸水問題は、ちょっとした不注意が生じさせかねない。ちょっとした装置の不備と心がけの不足が生じさせかねないものだ。そうした配慮に欠けた都市計画が目に余る。 その第一は、舗装面積を広げながら、それに見合った排水能力の配慮に欠けているように見えることだ。要は、土の吸水能力とか、水分調整能力、あるいは樹木の蒸散能力などの自然を力をナメテかかっていないか、と言いたい。このたびのわが家で生じた現象もご多分に漏れず、この配慮に欠けていたトガメと言えなくもない。 それが証拠に、2週間のカンカン照りの後、2度の恵みを得たわけだが、泉と井戸枠水槽の様子は以前とはちょっと様子がことなる。しっかり降った火曜日以降5日目にして、この状態だ。過去30年でいえば「最悪の事態」と見ていた状態になっている。 |
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泉 |
井戸枠水槽 |
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