ココロを惹かれるなど

 

 天皇の、このたびの日本武道館での深い反省の念や不戦を願う想いに触れ、改めて心惹かれた。

 かねてからの私は、日本は永世中立を誓い、それを真の自信と誇りの源泉にする国を目指すべきだ、それが人類史でみれば正解だと見てきたが、その想いを新たにした。

 対して首相の、4年連続の加害の自覚がなく反省の念に欠けた「戦争賛美のプロパガンダ」の繰り返しには辟易した。

 約310万人の日本人戦没者に対して「皆様の、尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを片時も忘れない」と今回も得意げに語ってみせた。これはいつの間にか国民のアタマに「平和と繁栄を享受するためには尊い犠牲がつきものだ」との想いを刷り込もうとしているようなものだ。憤りを覚えた。

 それは多分、過日天皇陛下が、2015年を「さまざまな面で先の戦争のことを考えて過ごした1年」と振り返り、「平和であったならば、社会のさまざまな分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり、このことを考えると非常に心が痛みます」と、言葉を詰まらせながら述べ、民間船員の犠牲に言及されたことを思い出させたからだ。と同時に、首相の言葉の裏に、戦時中よく聞かされた「欲しがりません、勝つまでは」との標語の裏に隠されていた卑しい誘導を思い出さされている。

 そして、約310万人もの犠牲に触れるなら、かくなる犠牲を出した「戦争を深く反省し、2度とかような道を選ばないことを誓います」と言ってほしかった。ならば「戦争とは異なる道を選んでいたら」と国民に呼びかけ「今日よりもさらなる平和と繁栄を享受する国になっていたに違いありません」と繋ぐことでき、明るい未来を国民に展望させられたはずだ。だから、なぜ首相はそれを、つまり不戦の誓えないのだろうか、と疑問を感じた。

 この疑問は、ベトナム戦争のさなかにアメリカで生じたある現象を思い出あせた。それはNHK=TVで知ったことだが、ベトナムで交戦中のアメリカ軍兵士が、アポロ11号のニュースを目の当たりにしたときにしたためた手記だ。

それはひどく不気味な光景だった。
アメリカという国は、
ベトナムの泥沼を這いずり回って暮らす数十万の我々兵士よりも、
月面にいるたった二人の男のことの方を、
ずっと心配していたのだ。
得体のしれない感情が込み上げてきた。

1975年4月30日にサイゴン陥落
アメリカ兵戦死者   58,000人
ベトナム兵戦死者 3,000,000人


 その後、アメリカに帰還した兵士は、期待とは異なり「人殺し」のようにののしられたりした。そして、戦死した兵士の数の3倍もの自殺者を出している。今やアメリカはこうした国になっている。

 日本は、アメリカの悪しき一面の尻馬に乗ったり、片棒を担いだりしてはいけない。永世中立を誓い、良い一面を補強し、世界になくてはならない国を目指すべきだ。

 オバマ大統領は今、苦しんでいる。本気で核先制不使用を誓いたいのだろう。私がアメリカ国民なら、これを支持し、覚悟を決める。それが人類の悪しき一面、つまり不信がつのらせる悪の連鎖を断ち切るからだ。だが吾が首相は、この核先制不使用を支持せず、核先制使用を望んでいる。そうと知った時に、私はキューバ危機の折のカーチス・ルメイを思い出した。ケネディーに「やられる前にやろう」と迫った男だ。7、000メガトン、広島型46万個分の核ミサイル先制攻撃を強行に提案した。

 もしケネディーでなく、実施していたら、どうなっていたことか。後年、失脚したフルシチョフの手記で、ソ連は不信の連鎖におののいていたことが分かっている。

 吾が首相は昨今、不信の連鎖をむしろ好んでいるように見える。それはどうしてか。

 その答えは、最近では『それでも日本人は「戦争」を選んだ』で加藤陽子さんが簡明に指摘している。太平洋戦争で、痛い目に遭っていないからだ。

 太平洋戦争では、国は国民に受忍を強いることができたからだ。市街戦に巻き込まれ、日本軍の片棒を担がされて共に戦い、多大な犠牲をしいられた沖縄県民を始め、本土で爆撃の犠牲になった人たちは、今も受忍論に従っている。生命や財産だけでなく、誇り、自信、あるいは尊厳まで奪いとられておりながら耐えている。

 だから、裏返していえば「皆さんの受忍が、これからの平和と繁栄を享受するうえでの前提である。これを覚悟しておいてほしい」と言わんばかりの挨拶ができるのだろう。
 


 


加藤陽子さんが簡明に指摘している