カメラを持っていたら、と今もしばしば思い出す。アライグマともっと長い時間にわたって付き合えていたに違いない。この反省の念が日に日に高まっている。あの日は、手にしていたのはバットだった。バットで「ぶちのめしてやろ」と考えており、そのタイミングを計るために、中庭から旧玄関前まで懐中電灯で照らし出しながらアライグマを追い、ついて歩いて回った。
その間に、アライグマの動き方がおおよそ飲み込めるようになり、3度にわたって待ち構えた。うち2度は思った通りの位置にアライグマを迎えている。その2度目のところで、バットを土に激しく叩きつけた。アライグマは脱兎のごとく逃げ去った。
バットは、シカと遭遇した場合を想定して手にしていた。杖ぐらいでは効き目がなさそうに思われたからだ。その道中で、乾いた落ち葉を踏みつけるカサコソという音を耳にした。電池をかざすと、灰色の、縞模様のある尾の小さな動物が浮かび上がった。「アライグマに違いない」と思った。植え込みの間をコソコソと動いていた。電池に照らされながら恐れる様子はない。やがてその動きから、待ちかまえられそうな場所を読めるまでになったわけだ。バットの代わりに「カメラを手にしていたら」どうなっていたか、と実はその時も考えている。
庭のあちこちに出来た穴掘りの真犯人を特定できていただろう。「ミミズが好物の1つ」などと自慢げに子どもたちに話せていたことだろう。もちろん、ミミズがいる所の突き止め方や、目星を立て所にミミズがいる確率なども事細かく説明できる人になっていたかもしれない。
もしバットがもう5p長ければ、とうなっていたか。悪夢のごとき惨状を己の手で創り出していたに違いない。「キチガイに刃物」とはよく言ったものだと思う。
この差別用語と言われかねない用語まで用いたが、用いてよい、と思ったその時の心境を居間も思い出せる。そして、その心境が1つの想いになり、その想いがココロの中で次第に固まりつつある。
カメラを手にしていたら、私はキチガイではなかったわけだ。バットを手にした時点から私はキチガイになっていた、と断言してよい。いや、その前に、武器を持てばキチガイになりかねないとの自覚ができるか否かの問題であり、それが今、問われている。私は自らをキチガイにしていたわけだ。71回目の8月15日を迎え、そう改めて思った。
反省することしきりだ。
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